小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1215 南米の旅―ハチドリ紀行(4) パラグアイ移民として50年

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 イグアスの滝からの帰り、パラグアイ・イグアス市の移住地で東京五輪(1964年)の直前に鹿児島から移住したという一人の日本人に会った。園田八郎さん(64)である。南米移民というと戦前の話かと思っていたが、高度経済成長の陰で依然として移民政策は続いていたのだ。

 いまではパラグアイ経済を支えるまでになったという日系の人たちの存在。園田さんの話は興味が尽きなかった。 芥川賞の初回(1935年)の受賞作品は、ブラジル移民を題材にした石川達三の「蒼氓(そうぼう)」である。石川は1930年に移民の監督者としてブラジルに渡り、数カ月暮らしたことがある。この経験を基に小説を書いたといわれ、後に社会派作家として知られるようになる。

 日本人が海外へ移民として渡り始めたのは、第二次大戦前の1885年のハワイが初めてで、その後アメリカから南米へと拡大し、戦後も園田さん家族を含め南米を中心に多くの日本人が移り住んだ。 園田さんは鹿児島県鹿屋市出身で、1962年、両親・家族とともにイグアス移住地にやってきた。

 1950年生まれだから当時12歳だった。園田さんは、先に移住していた兄に続きやってきたが、家族は焼畑農業で農地を広げた。成人した園田さんはJICAパラグアイ農業試験場に就職、60歳の定年退職まで38年間働いたという。現在、息子さんがペンションと豆腐料理が名物の和食店を経営しており、この居住地のリーダー的存在だ。イグアス市には現在市の人口の7%に当たる700人の日系人が住んでいるが、市の経済を支えていているのは日系の人たちだという。

 園田さんによると、船の倉庫に乗って1カ月半、さらにアルゼンチンのブエノスアイレスから木炭列車で1200キロを4日かけて到着したイグアス地区は道路もなく、原始林が延々と広がっていた。その原始林を切り倒し、焼畑農業で苦労しながら農地をつくった。移住地にある史料館には、焼畑農業当時の写真や農具など、移住者が使っていた日常品が展示され、この地区の移民の歴史を知ることができる。

 海に囲まれ、海産物が豊かな日本からやってきた移民の人たちはパラグアイという海のない国で、どんな思いを抱きながら暮らしてきたのだろう。 園田さんは「この付近は肥沃な赤土で、30年間肥料なしでも作物(大豆が中心)が栽培できる世界一の土地だ」と語った。パラグアイは現在、世界第4位の大豆の輸出国になっており、日本人移住者たちの努力が実を結んだといえるだろう。

 東日本大震災後、パラグアイ移住者たちは大豆100トンを被災地に贈り、岐阜県の民間会社などの協力で100万丁の豆腐が被災者に配られたという。地球の裏側に住む人たちからの支援は、被災者を元気づけたに違いない。

 園田さんの話を聞いたあと、息子さんが経営している和食店で昼食を食べた。ごはん、味噌汁のほか豆腐の冷奴、焼き魚(サケ)、鶏の唐揚げ、ナスの味噌和えなどが付いた和定食はおいしく、中でも豆腐の味は格別だった。2013年12月、和食はユネスコの世界無形文化遺産に登録されたが、和食の伝統が日本から遠く離れたパラグアイでも生きていることに、心が潤んだ。

 5回目はコチラから

 写真 1、パラグアイ・イグアス地区の大豆畑 2、移民の歴史を展示する史料館 3、史料館で語る園田さん 4、息子さんが経営する和食店の和定食 5、日本人居住区には赤い鳥居がある

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