小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1044 被災地の製紙工場を見て思うこと 日本とトルコ友好の礎の人

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 石巻市南浜にある日本製紙石巻工場は、東日本大震災で大きな被害を受けた。被害額は750億円に達したというから気が遠くなるような損害だ。石巻を何度か訪れ、この工場の惨状を見る機会があった。その工場が被災した姿を残したまま操業を再開したことを聞いて、関係者の不屈の精神を感じ取った。

 私は今年9月、トルコを旅行した。日本とトルコの友好親善の基礎を築いた人物が、実は日本製紙とも縁があることを最近知った。茶道家の山田宗有(1866-1957)で、家元就任前までは山田寅次郎という実業家だった。

 詳細は省くが、彼の経歴は次のようなものだ。 幕末期の沼田藩(現在の群馬県沼田市)の江戸家老の次男として生まれた山田は15歳のとき、茶道の家元に養子に入る。しかし、家元は襲名せずに、言論界に入り、オスマントルコの軍艦エルトゥールル号が訪日して帰国途中の1890年、和歌山県沖で遭難した際、犠牲者の遺族に贈ろうと義援金を募ることを呼び掛け、2年で5000円(現在の1億円相当)を集めトルコに自ら送り届けた。 その後、トルコに興味を持った山田は、イスタンブールで貿易事業を興し、20年間、同地に滞在。日本とトルコの架け橋的存在になった。 第一次大戦オスマントルコはドイツと同盟を結ぶ。(敗北し連合国の占領下に置かれたトルコの独立を指揮したのがアタルチェルクである)

 情勢が緊迫する中で、山田は住み慣れたイスタンブールを離れて、帰国する。そして山田は大阪で製紙会社を経営し、関西の実業界で活躍する。 同時に茶道宗徧流の家元を襲名、山田宗有を名乗る。山田が経営していた製紙会社はたばこの巻紙や辞典用紙など特殊紙メーカーとして知られる三島製紙と合併し、彼は社長、会長を歴任し、トルコとの親善にも尽くした。

 トルコでは、貿易業を始める前、士官学校で日本語を教えたが、教え子の中に独立戦争を指揮したアタルチェルクもいたという。 山田は、三島製紙の会長をやめてからは茶道に専念し、昭和32年2月、90歳で死去した。

 三島製紙は2008年2月、日本製紙の完全子会社となり、現在は「日本製紙パピリア」という社名になっている。 東日本大震災ではトルコから32人の救援隊が来日、行方不明者の捜索や被災者の支援に当たった。

 同じ年の10月、トルコ中部で多数の死傷者を出す地震が発生した。当時の報道によると、被災者たちが東日本大震災当時の日本人を見習い、落ち着いた行動を呼びかけ、略奪なども起きなかったという。 山田は国境を超えて人との繋がりを大事にした。それが分かっていても実践するのはなかなか難しい。

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写真 1、大きな被害を受けた日本製紙 2、石巻市雄勝地区のいま。