1958 ベートーヴェンは《第九》が一番 何かを満たしてくれる曲
NHK教育テレビで、今年が生誕250年になるベートーヴェンの曲について「ベスト10」のアンケートをした番組やっていた。一番に選ばれたのは、私の予想通り《第九》だった。なぜ日本人は《第九》が好きなのだろう。ベートーヴェン研究者で政治活動家(故人)の小松雄一郎(1907~1996)がその答えを書いているのを読んだ。要約すると「日本人は《第九》に何かを求め、第九にはそれを満たしてくれるものがある」というのだ。
小松は「《第九》には今の日本に欠けていて、しかもなければならぬ何かがある」という。これは『音楽の手帖 ベートーヴェン』(青土社)に掲載された『第九交響曲 新しいベートーヴェン像とは』という題で書かれた小松の論考だ。《第九》はシラーの詩による「歓喜の歌」を合唱する。それは「心の底から人間の解放を求める歓喜であり、自由、平等、友愛の理念であった。《第九》にこれが結晶しているが故に、多くの日本人は《第九》に参加して聴くことによって、感性に訴える『音楽』という形式を通じてこの根本の理念を《第九》に求めているのであろう」。
私も、もちろん《第九》は嫌いではない。ただ、人間の解放を求める歓喜――などと、小松のように深く考えてこの曲を聴いたことはない。小松には悪いが、合唱の部分ではそれぞれの表情が面白く、ついつい合唱団の人たちの顔に見入ってしまうのだ。詩人で彫刻家の高村光太郎は「ベートーヴェンの音楽は人を無垢にする。一切を忘れさせる。一切の現世的喜怒哀楽を超越させる。一切の『状態』から解脱させる。人を『源』にかへさせる」(新潮社『日本詩人全集9 高村光太郎』のエッセイ「楽聖をおもふ」より)と、書いている。これは、小松の「何かがある」ということに対する一つの回答のように思える。 『ジャン・クリストフ』で知られるフランスの作家、ロマン・ロマンの詩はベートーヴェンと《第九》のことを分かりやすく、的確に記している。
不幸な貧しい病身な孤独な一人の人間、まるで悩みそのもののような人間、 世の中から歓喜を拒まれた其の人間がみずから歓喜を送り出す―― それを世界に贈りものとするために。 彼は自分の不幸を用いて歓喜を鍛へ出す。 そのことを彼は次の誇らしい言葉によって表現したが、 この言葉の中には彼の生涯が煮つめられており、 又これは、雄々しい彼の魂全体にとっての金言でもあった―― 『悩みをつき抜けて歓喜に到れ!』(片山敏彦訳)
コロナ禍の今年。悩みが尽きない人は少なくないだろう。そんな時に《第九》を聴くと、何かを語りかけてくれるのかもしれない。
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