小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1846「第九」を聴きながら 横響と友人にブラボー!

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 友人が所属する横浜交響楽団定期演奏会を聴いた。《横響定期第九70回記念・横響と第九を歌う会50周年記念》と題した演奏会は、飛永悠佑輝さんが指揮し、ワーグナーの楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』第一幕への前奏曲に続いて、ベートーヴェン交響曲「第九番ニ短調合唱付き」を演奏した。総勢630人を超える合唱は迫力があって、今年のモヤモヤ感を吹き飛ばしてくれた。横響と第2バイオリンの友人に「ブラボー!」である。  

 最近、「第九」で歌われるドイツ語を日本語で歌う演奏会も珍しくなくなった。やや古い話になるが、1987年に出版された『音楽への恋文』(共同通信社刊)の中で、著者の作詞家、なかにし礼さんは、「ベートーヴェンの第九と闘う」と題し、第九の歌詞を苦労しながら日本語にしたことを書いている。  

 なかにしさんによれば、ある指揮者は当時「第九とかオペラは原語でやった方がいい。日本人は西洋音楽を身近に感じ過ぎている。だから、(第九のように)言葉があるときは、ここに分からない言葉がある、西洋の言葉だ、遠い国の言葉だと感じ、西洋の音楽との一定の距離を保つことが大切で、そこにありがたさが生まれるのだ」と話したのだという。これに対し、なかにしさんは「あーあクラシックはまだこんなところにいるのかと、ガッカリしてしまった。しかし、これが現実で、この指揮者の姿が日本のクラシック界を象徴している」と、嘆息したそうだ。  

 こんなエピソードも。日本人が大挙ドイツに行き、ドイツ語で「第九」を歌ったことがあった。歌い終わると、ドイツ人に「さすがに日本人は日本語で歌った」とほめられた。「ドイツ語で歌ったのです」というと、「ドイツ語とは全然分からなかった」とドイツ人が目を丸くした、というのである。この後、「第九」の詞に取り組んだ経緯について書かれている。詳細は割愛するが、なかにしさんは「第九はもはや日本人のものなのだ、一つくらい日本語で歌う演奏会があってもいい」と思い、頭を絞ったのだそうだ。

 なかにしさんの詞による『日本の第九』の初演は、三重県桑名市の桑名楽友協会(佐藤信義会長)の主催で1987(昭和62)年8月30日、桑名市民会館大ホールで行われた。  横響の演奏会は、日本語ではなくドイツ語で歌われた。配られたプログラムには日本語訳の歌詞が載っていた。その中の「主題の変奏(その2)の(四重奏)に「すべて この世に生を受けた者は 自然の乳房から 喜びを飲み すべての善人も悪人も 自然のいばらの道をたどる」という一節がある。

 新聞の最近の投書には「今年を表す漢字に令が選ばれたが、自分が選ぶとすれば酷という漢字だ」という内容の投書が掲載されていた。今年の日本を振り返ると、災害が相次いだから、まさに「自然のいばらの道」が続いた印象が強かった。それだけに、来る年こそ災厄のない平穏な世界であってほしいと願うばかりである。  

 演奏会の客席には、生後半年くらいと思われる男の赤ちゃんを連れた若い夫婦の姿もあった。赤ちゃんが途中でぐずり出し、若いママは慌てて外で出て行った。しばらくして再び中に入り、後方に立って演奏を聴いていたが、途中でまた赤ちゃんの大きな声が聞こえた。合唱に参加したおじいちゃんかおばあちゃんを応援にきたのだろうか。合唱が始まる直前に体調が悪くなったのか、倒れそうになって周囲のメンバーに運ばれて舞台から姿を消した女性(高齢に見えた)もいた。「第九」を歌えなかったのは彼女にとって、とても残念だったに違いない。私の2019年は、こうして暮れて行く。  

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