小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1925 アウシュヴィッツのオーケストラ 生き延びるための雲の糸

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「人間の苦悩に語りかけ、悲しみを慰め、それをいやすよう働きかける力こそ、音楽のもつ最高の性質の一つだと信じる」。音楽評論家の吉田秀和は、『音楽の光と翳(かげ)』(中公文庫)で音楽の力について書いている。第2次大戦下、死が日常化したナチス強制収容所でも音楽が流れ続けた。収容所で編成された女性オーケストラのメンバーによる本を読み、この本を原作にした同名の映画を見た。死の淵に立った彼女らにとって、音楽は生き延びるための雲の糸のような存在だった。戦後75年。世界各地の独裁国家には、憎むべき強制収容所が今も残っている。

 ファニア・フェヌロン著、徳岡孝夫訳『ファニア歌いなさい』(文藝春秋)は、グスタフ・マーラーの姪、アルマ・ロゼ(1906~1944)が指揮していたアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所(第1強制収容所=ポーランド南部オシフィエンチム市、ドイツ語名アウシュヴィッツ。第2強制収容所=隣接するブジェジンカ村、同ビルケナウ)の女性オーケストラで歌手を務めたユダヤ系フランス人の女性ファニアの手記(回想記)である。ヒトラー率いるナチ党(ナチスドイツ)は、1930年代からドイツで権力を握ると反ユダヤ主義政策を掲げ、ユダヤ人や共産主義者、反体制派に対する迫害を始めた。第2次大戦突入とともにドイツをはじめ占領地でユダヤ人狩りを実施し、強制収容所に送り、強制労働と絶滅(ホロコースト)を図った。

  1918年に生まれ、パリ音楽院のピアノ科を卒業し、パリでナイトクラブの歌手をしていたファニアはナチスによるユダヤ人狩りに遭い、列車でガス室を備えたユダヤ人殺害工場があるビルケナウに送られる。ここでアルマ(2代目)指揮の女性オーケストラ(約30人)のメンバーとなり、歌と編曲を担当し強制労働とガス室送りを免れる。女性オーケストラの役割は強制労働送迎のためのマーチ演奏、収容者をガス室で処刑する際の明るい音楽の演奏、収容所幹部らへの演奏会などで、他の収容者から白い目で見られたという。手記はアルマについて収容所幹部にへつらい、団員に冷たく接する人物として厳しい評価を下している。

 アルマはユダヤ系ドイツ人の著名なバイオリニストだったが、強制収容所に送られ連合軍による解放前に死去した。この本では毒殺された疑いと書かれている。食中毒説、病死説もあり、真相はよく分からない。ファニアはプッチーニのオペラ『蝶々夫人』の「ある晴れた日に」などの歌曲を歌い、多くのクラシック曲を編曲した。オーケストラはナチの宣伝曲以外にベートーヴェン交響曲「第5番」(運命)や著名なバイオリン曲、アリア、ダンス曲、ワルツ、行進曲と様々な曲を演奏した。だが、完璧主義のアルマは容易に満足せず、強制収容所を所管するナチスの親衛隊トップ、ハインリヒ・ヒムラーが視察した際には、練習が一日20時間に及ぶこともあったと書かれている。

  ファニアは、アルマの死後しばらくしてビルケナウからドイツ国内のベルゲン・ベルゼン強制収容所に移される。ここではもう音楽活動はなかった。同じ時期に『アンネの日記』のアンネ・フランク(1929~1945)も3歳上の姉とともにビルケナウからこちらに送られ、解放される直前にチフスのために死亡した。正確な死亡日時は不明である。アンネたちも、ビルケナウでファニアらの演奏を聴いたのかもしれない。

  ファニアもチフスにり患するが、命を取りとめ、イギリス軍の手によって解放されると、兵士に向って『ラ・マルセイエーズ』(フランス国家)を歌い、従軍していたBBC英国放送協会)の記者のマイクに対し『ゴッド・セイブ・ザ・キング』(イギリス国家)を歌い、さらに収容所に残っていたロシア人たちと一緒に『インターナショナル』(1944年までの旧ソ連の国歌)を合唱した。

  ファニアの手記がフランスで出版されたのは1976年のことで、1980年にはアメリカで同名の映画が制作(脚本アーサー・ミラー)され、大きな話題になった。その後、生き残った他の団員へインタビューした本も出ており、手記はアルマに対する見方など事実誤認が少なくないといわれる。手記は隠し持っていた日記を基にしたという。個人の見方だから、客観性に欠ける面もあるのは当然だ。しかし、アウシュヴィッツという死が日常化した現実の中で生き抜いた記録は胸に迫るものがあり、価値があると思うのだ(日本では81年に出版されたが、絶版になっている)。

  アウシュヴィッツでの彼女らの活動は、人間の命を奪い続けるのを仕事(そろって、上からの命令でやったと弁明したが)とし、音楽好きな収容所幹部らの気まぐれによる思い付きであり、苦悩に語りかけ、悲しみを慰めようというような崇高な精神があったとは思えない。しかし、それによってファニアらは生き残ったのだから、運命としか言いようがない。

  ルーマニア生まれのユダヤ人少女詩人、ゼルマ・アイジンガー(1924~1942)は、ナチスホロコーストによってウクライナのミハイロフスカ強制収容所に送られ、18歳でチフスのため亡くなった。以下は、収容所で書いたというゼルマの詩である。この詩は収容所で犠牲になった数百万ともいわれる人たちの、死にたくないという叫びのように思えてならない。

 「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」(ドイツの哲学者アドルノ

    大気はそよとしてやさしく、冷たい。

  遠くのポプラがくりかえし手をふっている。

 

  わたしは生きたい。

  わたしは笑い、重荷をふりはらいたい、

  そして闘い、愛し、憎みたい、

  そして両手で空をつかみたい、

  そして自由になって、呼吸し、叫びたい。

  わたしは死にたくたくない。いや!

 

  なぜ、大砲はうなるの?

  なぜ、きらめく王冠のために

  生命(いのち)は死ぬの?

               (秋山宏訳『ゼルマの詩集』岩波書店

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