小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1934 ある新聞人の苦悩の戦後 沖縄再訪への思い抱きながら

那覇・新聞人の碑.jpeg

 沖縄・那覇に「戦没新聞人の碑」がある。沖縄以外ではあまり知られていないが、今から54年前の1966(昭和36)年9月30日に除幕された、太平洋戦争の沖縄戦で亡くなった14人の新聞関係者を慰霊する碑である。沖縄戦ではおびただしい民間人が犠牲になり、生き延びた人たちも戦後厳しい生活を強いられた。人に歴史ありという。今回は、沖縄戦直前に那覇を去らざるを得なかった一人の新聞人のことを書いてみる。(少し長くなりますが、お付き合いください)

「新聞人の碑」は、地元の沖縄タイムス琉球新報と朝日、毎日、共同通信5社の拠出金(地元紙は各100ドル、それ以外は各50ドル)を基に、那覇市の波の上ビーチに近い旭ケ丘公園の一角に建立された。裏面には「1945年春から初夏にかけて、沖縄は戦火につつまれた。砲煙弾雨の下で、新聞たちは2カ月にわたり新聞の発行を続けた。これは新聞史上例のないことである。その任務を果たして戦死した14人の霊は、ここに眠っている」と記され、14人(沖縄新報10人=戦前の新聞統制により沖縄日報、沖縄朝日新聞琉球新聞が統合、45年5月25日に廃刊。同盟通信関係者2人=共同通信時事通信の前身。朝日、毎日各1人)の名前が刻まれている。

 この碑に2人の「同盟通信関係者」が刻まれていることでも分かるように、戦前の1941(昭和16)年10月、同盟通信は那覇に支局を置いた。支局長以下15人の陣容を誇る大支局だった。日本が米国、英国など世界の大国を相手に太平洋戦争に踏み切る直前のことである。当時、沖縄から本土向けに送り出すニュースは少なく、支局は「無線同報」というシステムを通じて本社から送られてくる一日当たり5万字に及ぶカタカナのニュースを受信、それを文章にして地元の沖縄新報に渡すのが主要な業務だった。支局長は当時39歳の青戸修氏で、東京本社編集局査閲部という部署からの異動だった。  

 このブログ執筆の主要参考文献は『岐路に立つ通信社 ――その過去・現在・未来――』(新聞通信調査会)の中の「証言編・弾雨の中、新聞人の心意気」という手記である。筆者、横田球生氏は共同通信政治部を代表する良心派の記者といわれた。1960(昭和35)年に共同通信の初代那覇支局長として赴任し、地元紙沖縄タイムス琉球新報関係者とともに「新聞人の碑」建立に尽力した。手記によると、青戸氏は戦局が悪化した1944(昭和19)年夏、夫人のとめのさんと国民学校5年生の長男、弘君を本土に帰すが、弘君は那覇から鹿児島への1週間に及ぶ潜水艦を避けながらの舩旅に疲れて高熱を出し、鹿児島到着の際は半死半生になった。2人はとめのさんの実家、兵庫県余部村(現在の姫路市余部区)に疎開した。  

 那覇市は10月10日、5波にわたる米軍機による無差別空襲で90%が灰燼に帰す。そして沖縄県の幹部は様々な理由で沖縄を去っていく。そうした中、青戸氏は1944年の暮れ、今後の支局活動をどうするか協議するため軍用機を利用して東京に出張した。その帰りに、容態が悪化し姫路市の病院に入院中だった弘君を見舞ってから福岡板付飛行場に向かい、旅館で沖縄行きの軍の飛行機の空席待ちをしていた。1945(昭和20)年1月中旬のことである。  

 だが、その順番は回って来ず、しかも弘君危篤の電報が届き、姫路に戻ったが息子は11歳の生涯を閉じた。そのショックで青戸氏は沖縄に戻ることをあきらめ、責任をとって退社することを決めた。だが、辞表は受理されず、青戸氏は大阪支社に異動になる。「息子が死ななかったら、私はどんなことをしても沖縄の任地に帰っただろう。だが、彼の死はあまりにも衝撃だった。張り詰めていた気持ちがスーッとしぼみ、何もする気がなくなった」と、後に青戸氏は横田氏に語ったという。  

 沖縄新報は5月25日の旧陸軍・第32軍の首里撤退の日に廃刊となり、同盟那覇支局もその活動を終えた。冒頭に記したように、新聞人の碑には14人の名前が刻まれているが、実は同盟(関係者と書いた)の2人は、社員でも雇員でもなく、逓信省から派遣されたオペレーターだった。しかし、2人が同盟ニュース受信のために命を懸けて働いたことを沖縄の生き残った新聞人たちが覚えており、この碑に刻まれたのだ。  

 青戸氏はその後、どのような人生を歩んだのだろう。大阪支社に配置後の4月15日に召集され、42歳の2等兵として朝鮮に渡った。幸いその秋に復員、同盟が解散して発足した共同通信に翌年の1946(昭和21)年に入社、49(同24)年から55(同30)年まで舞鶴支局長として中国、ソ連を中心とした邦人引き揚げを取材した。その後、大阪支社の総務部に勤務して57(同32)年7月に定年退社し、鉄工会社や私立学校の事務員として日本経済の高度成長期を生きた。  

 沖縄関係の本が出るとほとんど購入し、沖縄関係の展覧会にも必ず足を運んだ。それほど沖縄再訪への思いは強かったという。しかし、自身が途中で沖縄を去った事実が心の重荷になったとみられ、夫人に「もう一度行きたい。しかし、多くの人がおれを逃亡者、計画的に逃げ帰った支局長と見ているらしい。これでは行けないよ」を繰り返し、本土復帰後も沖縄行きを断念した。そして、「戦没新聞人の碑」に手を合わせる機会がないまま83(同58)年1月、80歳で亡くなった。  

 晩年、青戸氏は夫人とともにしばしば信州の山を訪れたという。横田氏は、「推測にすぎないが」と書いたうえで「沖縄の重荷を少しでも軽くするために、気候、風土、風景が極端に沖縄と異なる信州を、心を安らげる場に、選んだのではなかろうか」と記している。私が知る共同通信那覇支局勤務経験者は一様に沖縄を愛し、沖縄訪問を繰り返している。時代が違っていれば、青戸氏もそうした仲間に入っていたはずだ。しかし、歴史は非情であり、青戸氏にとっての沖縄は、悔いの残る辛い思い出の地になってしまった。まじめな人柄で気が弱かったという青戸氏。昭和という戦争の時代に翻弄された一人だったといえる。  

 沖縄の地元紙、琉球新報のコラム「金口木舌」(きんこうもくぜつ)はことし8月6日、「戦火の新聞人たちの思い」と題したコラムを掲載した。その中で「戦争下での新聞発行は5月25日まで続いた。沖縄戦で14人の報道関係者が亡くなった。彼らの名前を刻んだ那覇市若狭の『戦没新聞人の碑』前で、今も毎年地元の報道関係者が戦争につながる報道はしないと誓う」と書いている。同社の旧社屋にある「琉球新報新聞博物館」(那覇市天久)にはレプリカらしいこの碑が展示されている。そこには「島を吹き飛ばすほどの猛烈な砲弾下、弾雨の中を新聞たちは記者魂に燃え戦況取材に命を懸けた」という説明と14人の名前が記されている。  

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 写真  1、那覇市若狭旭ヶ丘の戦没新聞人の碑 2、琉球新報新聞博物館に飾られた碑のレプリカ 3、その説明  

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