小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1744 辺戸岬の「復帰闘争碑」 続・坂の街首里にて(4)

画像

 沖縄本島最北端の辺戸岬に行った。首里から車で約2時間半。断崖の下に広がる冬の海は白波を立て、以前見たような既視感を抱いた。そうだ。ユーラシア大陸最西端のポルトガルのロカ岬と印象が似ているのだ。ロカ岬にはポルトガルの国民詩人といわれるルイス・デ・カモンイスの詩の一節「「ここに地終わり海始まる」が刻まれた十字架の石碑が建っていた。

 一方、辺戸岬には「祖国復帰闘争碑」と社会派の俳人、沢木欣一の句碑の2つが建っていた。「全国の そして世界の友人へ贈る」という書き出しの前者の碑を読みながら、沖縄の現状はこの碑が建った1976年当時と変わっていないことを実感した。  

 辺戸岬は2016年9月15日 に国立公園に指定された「やんばる国立公園」内にあり、沖縄本島の最北端の地だ。はるか遠くに鹿児島県最南端の与論島が浮かんでいる。2つの碑を読んだ。「祖国復帰闘争碑」は長い文章だが、以下に全文を紹介する。  

 全国の そして世界の友人へ贈る  吹き渡る風の音に 耳を傾けよ  権力に抗し 復帰をなしとげた 大衆の乾杯の声だ  打ち寄せる 波濤の響きを聞け  戦争を拒み 平和と人間解放を闘う大衆の雄叫びだ  鉄の暴風やみ 平和の訪れを信じた沖縄県民は  米軍占領に引き続き1952年4月28日  サンフランシスコ「平和」条約第3条により  屈辱的な米国支配の鉄鎖に繋がれた  米国支配は傲慢で 県民の自由と人権を蹂躙した  祖国日本は海の彼方に遠く 沖縄県民の声はむなしく消えた  われわれの闘いは 蟷螂の斧に擬せられた  しかし独立と平和を願う世界の人々との連帯であることを信じ  全国民に呼びかけ 全世界の人々に訴えた  見よ 平和にたたずまう宜名真の里から  27度線を断つ小舟は船出し  舷々合い寄り 勝利を誓う大海上大会に発展したのだ  今踏まれている土こそ  辺戸区民の真心によって成る沖天の大焚火の大地なのだ  1972年5月15日 沖縄の祖国復帰は実現した  しかし県民の平和への願いは叶えられず  日米国家権力の恣意のまま 軍事強化に逆用された  しかるが故に この碑は  喜びを表明するためにあるのでもなく  まして勝利を記念するためにあるのでもない  闘いをふり返り 大衆が信じ合い  自らの力を確かめ合い 決意を新たにし合うためにこそあり  人類の永遠に存在し  生きとし生けるものが 自然の摂理の下に  行きながらえ得るために 警鐘を鳴らさんとしてある

 碑の裏面には、この碑が1976年4月に沖縄県祖國復帰協議会(復帰協)によって建立されたこと、復帰協(第3代)会長だった桃原用行氏が起草し、同じく復帰協(第6代)事務局長だった仲宗根悟氏が揮毫したと記されている。沖縄の本土復帰後、4年を経ての碑の建立の背景には碑文にある通り、復帰の形が沖縄の人々の希望とは乖離(平和とは程遠い軍事基地の継続)していたためといわれる。

 それは現在も継続し、普天間基地の移転のための辺野古基地建設という難問が降りかかり、辺野古の賛否を問う県民投票に対し地元新聞社の世論調査で78%の有権者が投票への参加希望をしているにもかかわらず、保守系議員が主導権を握る宮古島市など一部自治体が不参加を表明するという分断的状況さえ出ている。    

 辺戸岬のもう1つの碑は、沢木欣一の「夕月夜みやらひの歯の波寄する」という句碑(1980年建立)だ。沢木は本土復帰前の1968年に沖縄に1カ月余滞在し、それを基にした句集「沖縄吟遊集」を発表している。夕月夜は秋(仲秋。陰暦8月の2日月から上弦の頃までの月をいう)の季語で「みやらび」は乙女を指す沖縄の言葉だ。この句は「夕月夜、乙女の歯のような鮮やかな白い波が打ち寄せている」という意味だと受け止めた。2つの碑は、辺戸岬と一緒に沖縄海岸国定公園から「やんばる国立公園」に編入された「大石林山」に向かって建てられている。

 奇岩や巨石、亜熱帯の森、大パノラマで知られる聖地といわれ、辺戸岬から見た大石林山の遠景は「釈迦の涅槃像」のように見える。それは、74年前の沖縄戦で犠牲になった人々への鎮魂と沖縄の基地撤去を望む県民の思いが込められた姿のようだった。(続く)

1667 「ここに地終わり海始まる」 心揺さぶられる言葉

画像
画像
画像
画像
画像
画像