小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1943 『里の秋』の光景 椰子の実の島の父思う歌

IMG_141429.jpg

 朝のラジオ体操で第1、第2の合間に首の運動がある。その時のピアノ伴奏は季節に合わせた曲が多い。この秋、ラジオからよく流れるのは『里の秋』(作詞斎藤信夫、作曲海沼實)だ。母と子が囲炉裏端で栗の実を煮ている、というのが1番の歌詞。だが、2、3番はややそうした牧歌的風景とは異なる内容なのだ。なぜか。とりあえず、3番までの歌詞を読んでみる。

 1  しずかな しずかな 里の秋  お背戸に 木の実の 落ちる夜は  ああ かあさんとただ二人  栗の実 煮てます いろりばた     

 2  あかるい あかるい 星の空  鳴き鳴き 夜鴨(よがも)の 渡る夜は  ああ とおさんの  あの笑顔  栗の実 食べては おもいだす     

 3   さよなら さよなら 椰子(やし)の島  お船 にゆられて 帰られる  ああ とおさんよ御無事(ごぶじ)でと  今夜も かあさんと いのります  

 この歌詞は1941(昭和16)年12月、太平洋戦争が始まった直後に千葉県の教員で童謡作詞家だった斎藤が『星月夜』という題で書いた詩を終戦の年の12月に、作曲家海沼実からの依頼で一部手直しした。題名も『里の秋』と替え誕生したこの歌は、NHKの外地からの復員特集番組で歌われて一躍有名になり、その後現在まで歌い継がれている。3番まで読むと、母と子で父の思い出にふけりながら、戦地(椰子の実がある南の島)にいる父の無事を祈っている情景を描いたことが分かる。  

 歌の力は大きい。名曲は何年経ても人々に歌い継がれる。この歌もそうだ。椰子の島から、母子が待つ「とおさん」たちは何人が無事帰ったのだろうか。「とおさん」が帰還した家では、親子3人で島崎藤村の「椰子の実」の歌を唄う光景があったに違いない。  

 私はかつて太平洋戦争の激戦地だった南の島(ソロモン・ガダルカナル島)に行き、椰子の実の汁を吸ったことがある。少しだけ甘さを感じた。この島ではおびただしい日本兵が餓死した。彼らも椰子の実の汁を吸い、のどの渇きを癒したのだろうか。  写真 今朝の調整池周辺。流れる雲が太陽光に照らされ輝いていた。  

関連ブログ↓  

1925 アウシュヴィッツのオーケストラ 生き延びるための雲の糸    

1368 釣鐘草と精霊の踊り 私的音楽の聴き方  

1789 雨の日に聴く音楽 アジサイ寺を訪ねる  

1827 郷愁と失意と 秋の名曲『旅愁』を聴きながら

1494 雄々しい高橋英吉の《海の三部作》 被災地作品展を見る

1910 奇跡を願うこのごろ 梅雨長し部屋に響くはモーツァルト