小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1911 私利私欲を憎め 小才子と小悪党がはびこる時代

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 現代の日本社会を見ていると、小才子(こざいし)と小悪党が跋扈(ばっこ)し、私利私欲のために権力を動かしている者たちが大手を振って歩いている。これは独断と偏見だろうか。決してそうではないはずだ。コロナ禍に襲われた今年も残りは5カ月余になっている。このように書くのは気が早いと言われそうだが、災厄が早く去ることを願うが故のせっかちな表現をあえてしてみた。この間コロナで多くの人々が苦しむ中で、一部の人間は甘い汁を吸い、私利私欲のために走りまくったのは間違いない。

 小才子は「小才の効く人、ちょっとした才知のある者」という意味だ。「残念ながら 今日 の日本の社会はこういう奴が沢山にあって、小才子 の天下になっている」(新渡戸稲造 『今世風の教育』)というように、人を誉める言葉ではなく、マイナス評価として使われる。この言葉で思い浮かぶのは、首相に忖度を続け全体への奉仕者であることを忘れた官僚の姿であり、小悪党といえばあの人、この人、あいつもそうだと何人かの政治家の顔がちらつく。毎日の新聞を読んでいてそうした話題が尽きないから、現代はまさに「悪貨は良貨を 駆逐する」グレシャムの法則を思わせる時代だと思う。

  この法則は16世紀のイギリスの財政家・国王財政顧問トマス・グレシャム(1519~1579)がエリザベス女王(1世)に進言したといわれる経済法則だ。1つの国に価値の異なる2種類以上の貨幣が同一の額面で通用している場合、質の高い良貨は退蔵、溶解、国外への流出などにより市場から消え、悪質の貨幣だけが流通するようになる。その結果、貨幣不足などで経済に悪影響を及ぼす現象をいう。悪人がのさばりはびこる社会では、善人は小さくなって暮らすことを余儀なくされる世の中のことを言う場合にも使われる。

  詩人でタオリスト(老荘思想を実践する人)として知られる加島祥三が『老子』全81章を全訳した創造詩集『タオ――老子』(筑摩書房、2000年3月刊)は柔らかな言葉遣いながら含蓄があり、古代中国の哲学とはいえ現代にも通ずる内容が少なくない。その中で以下の章が目に付いた。

  第17章 最上の指導者(リーダー)

   道(タオ)と指導者(リーダー)のことを話そうか。

  いちばん上等なリーダーってのは

  自分の働きを人びとに知らさなかった。

  人びとはただ

  そんなリーダーがいるとだけ知っていた。

  その次のリーダーは

  人びとに親しみ、褒めたたえられ、

  愛された。

  ところが次の時代になると

  人びとに恐れられるリーダーが出てきた。

  さらにその次の代になると、

  人びとに侮られる人間がリーダーになった。

  ちょうど今の政治家みたいにね。

 

  人の上に立つ人間は、

  下の者たちを信じなくなると、

  言葉や規則ばかり作って、それで

  ゴリ押しするようになる。

 

  最上のリーダーはね

  治めることに成功したら、あとは

  退いて静かにしている。

  すると下の人たちは、そのハッピーな暮らしを

  「おれたちが自分で作りあげたんだ」と思う。

  これがタオの自然にもとづく政治であり、

  これは会社でも家庭でも

  同じように通じることなんだよ。

         (第17章「淳風」より)

  戦後の歴代首相は、この中のどのリーダー像に当てはまるのだろう。現在の安倍首相は? 人それぞれの受け止め方があるかもしれない。一人ひとりが胸の内で考えてみてはどうだろう。

  前述の新渡戸の文章は、この後「しかし小才子の時代は長く続くものでない。今の青年が熟して本当に国の役に立つということは、今より三十年以後のことであろう。その時分の時代は、今日の小才子時代とは違うのであるから、長き将来を思って仕事をするものは、今からその用意をして、自分の品格を養わぬといけない」と続いている。歴史は繰り返し、残念ながら現在は小才子と小悪党の時代なのである。