小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1644 音楽の文章化に挑む 須賀しのぶ『革命前夜』

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 若い友人が大学の卒業研究として、音楽をテーマにした小説に取り組んだ。当初、担当の教官は「それは音楽に対する冒とくだ」という趣旨のことを話し、友人の構想に疑問を呈したという。しかし、熱心に取り組む姿勢に打たれたのか、途中からそうした言葉は消え作品は完成した。

 教官の意図は「音楽を文章にするのは非常に難しく、壁が高いから考え直した方がいい」ということだったのかもしれない。だが、その壁に挑む作品が最近目につく。須賀しのぶ『革命前夜』(文春文庫)もその一冊だ。  

 東西ドイツを分断するベルリンの壁が崩壊したのは1989年11月10日のことである。かつてドイツに駐在していた元同僚が、ベルリンの壁崩壊を目撃したことが長い記者生活で一番心に残る取材だったと話してくれたことがある。それは、20世紀史に残る大ニュースだった。この作品は、壁が崩壊する年の1月に、当時の東ドイツDDR)・ドレスデンの音大ピアノ科に留学した日本人学生眞山柊史が体験する物語である。  

 眞山の周囲にはハンガリー出身でバイオリンに天才的才能を見せる男子学生や、バイオリンで正確に音楽を表現する東ドイツの男子学生、さらにピアノ科の北朝鮮からの男子留学生とベトナムからの女子留学生らがおり、町の教会で力量の高い演奏をする美貌のオルガニストも登場する。次第にうねりが高まる民主化運動の中で眞山も次第にその渦に巻き込まれ、意外な人物の裏切りという結末へと展開する。  

 作品には幾つかのクラシック曲が織り込まれている。ラフマニノフ「絵画的練習曲『音の絵』」、バッハ「平均律クラヴィーア曲集」第1巻、4番嬰ハ短調 BWV.849プレリュード、バッハ《神の時こそ、いと良き時》BWV106、《深き淵より、我、汝に呼ばわる》BWV686、モーツァルト・バイオリン協奏曲第5番、リスト・交響詩前奏曲(レ・プレリュード)、ベートーヴェン・オペラ『フィデリオ』等々だ。眞山の父親の友人のドイツ人が残したというバイオリンソナタも、作品の中で重要な位置を占める。  

 リストのレ・プレリュードは美しい曲だが、第二次大戦後のドイツでは演奏がタブーとされた時期があったという。壮麗なファンファーレで始まる第4部がナチスの宣伝放送に使われたのが理由であることも作中で明かされている。作品の主要な舞台はドレスデンだ。第二次大戦で連合軍によって徹底的に爆撃され、がれきの街となったが、東ドイツDDR )時代、東西ドイツ統一を経て、現在は戦前の街並みに復興し、多くの観光客も集まる観光都市になった。しかし眞山が留学生活を送ったのはDDRの息苦しい監視社会で、多くの人が西側への亡命、脱出を望んでいる。そうした歴史を背景に、多くの葛藤、試練を乗り越えて成長していく音楽留学生の物語は、知的好奇心を満たしてくれるはずだ。  

 この本の解説で作家の朝井リョウは「文章化することがとても難しい音楽という分野を、これだけ表現豊かに書いている」(中略)「ピアノすらできないと話す須賀さんの筆力を、ぜひ味わってほしい」と書いている。その通り、須賀はこの作品でそれぞれの曲について分かりやすい解釈に努め、音楽の文章化に成功したといえる。

 この本より少し後に出版され、直木賞を受賞した恩田陸の『蜜蜂と遠雷』(幻冬舎)、本屋大賞受賞の宮下奈津の『羊と鋼の森』(文藝春秋)も、音楽がテーマの作品だ。音楽の分野は文章化が難しいといわれる。だが、その壁を乗り越える作品が次々に生まれることは、頼もしい限りである。

 以下は音楽をテーマにした小説関連ブログ

1543 豊穣な音楽の世界 恩田陸著『蜜蜂と遠雷』を読む

1451 「理想の音を求めて」 ピアノ調律師を描いた『羊と鋼の森』『調律師』