小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1805 幻想の城蘇る 生き残ったノイシュバンシュタイン城

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「私が死んだらこの城を破壊せよ」狂王といわれ、なぞの死を遂げた第4代バイエルン国王ルートヴィヒ2世(1845~1886)の遺言が守られていたなら、ドイツ・ロマンチック街道の名城、ノイシュバンシュタイン城は消えていた。この城を描いたラジオ体操仲間の絵を見ながら、激動の渦に巻き込まれた城の歴史を思った。  

 城が好きだったという作家の司馬遼太郎は日本やヨーロッパの多くの城について「戦闘よりも平和の象徴のような印象があった」と『街道をゆく』シリーズ「南蛮の道Ⅰ」(朝日文庫)で書いている。では、ノイシュバンシュタイン城はどうだったのだろう。この城はルートヴィヒ2世の命によって1869年から建設が始まり、1886年にほぼ完成した。外観は中世風であり、城内には中世の騎士伝説からの場面を描いた絢爛豪華な部屋があるなど、王の道楽のために造られたと見ることができる。どう見ても戦のための城ではない。同じころの日本は明治維新から明治前半に当たり、鎖国から近代化へと舵を切っていた。

 城を造ることなど到底考えられない時代、遠いドイツにはこんな王が存在したのだ。 城が完成したこの年、おかしな言動を取るルートヴィヒ2世に対し危機を抱いた家臣たちは、王を逮捕、廃帝としバイエルン州ベルク城に送った。王は翌日、近くのシュタルンベルク湖で医師とともに水死体で発見された。死因は不明とされている。全盛期には作曲家、ワーグナーを支援し、豪華な城の建設にのめり込んだ王の末路は哀れだった。  

 城を自分だけのものと考えていたため、ルートヴィヒ2世は冒頭の遺言をしたのかもしれない。だが、王の追放後、摂政になった叔父のルイトポルトは城を壊さずに残した。それは正解だった。1955年にはアメリカリフォルニア州アナハイムにこの城をモデルにしたというディズニーランドの眠れる森の美女の城が造られたこともあり、この城は世界遺産ではないものの、今では世界から観光客が集まるバイエルン地方有数の人気スポットになっている。  

 一方、第二次大戦中、荒れ果てたこの城は、ナチスドイツがフランスから略奪した絵画を中心とする美術品の隠し場所になり、米国を中心にした連合国は美術専門家から成るチームを編成し奪還した歴史がある。この作戦に従事した専門家の1人は、この城について「権力を渇望した自己中心的な狂人のために実現した空中楼閣だった」と記した。時代を経た現在、この意見に同調する人は少ないかもしれないが、一時はこんな見方があったのだから歴史は面白い。  

 体操仲間が描いたノイシュバンシュタイン城は制作に3週間かけたといい、細密画を見るようで美しく、10数年前に現地で見た幻想の城が脳裏に蘇った。「——私は城が好きである。あまり好きなせいか、どの城址に行ってもむしろ自分はこんなものはきらいだといったような顔を心の中でしてしまうほどに好きである。だからできるだけ自分の中の感動を外(そ)らし自分自身にそっけなくしつつ歩いてゆくのだが……」司馬遼太郎は『街道を行く』「大和・壺坂みち」で、こんなふうに城への思いをつづった。ノイシュバンシュタイン城も人にそんな思いをさせる幻想の城なのだ。

 
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 写真は体操仲間の絵とパンフより