小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1770 新札デザイン・2千円・守礼の門は 司馬遼太郎の沖縄への思い

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 2024年度から紙幣(1万円、5千円、千円)のデザインが変更になると政府が発表した。唯一、2千円は変わらない。普段、私はお札のデザインを気にしていないが、かつて1万円については「聖徳太子」という別称があったことを記憶している。表紙の聖徳太子がそれだけなじんでいたのだ。現在の1万円の顔は福沢諭吉であり、今度は渋沢栄一になるという。「しぶさわ」が1万円札の象徴として扱われる時代、日本はどんな歩みを続けるのだろう。  

 紙幣デザインの変更を聞いて、影が薄いとだれしも思うのは2千円札のことだろう。最近ほとんど見かけないし、1万円や5千円の買い物をして、そのおつりでもらうこともない。表は首里城の「守礼の門」で、裏は源氏物語絵巻のデザインだ。2000年に開かれた沖縄サミットを記念して発行されたが、中途半端な額のためか利用度は低く、既に製造は中止になっている。現在は発行された分だけが流通しており、ほぼ9割が沖縄県で使われているそうだ。それだけに今回のデザイン変更で使用停止になる可能性もあったが、何とか生き残った。

「戦前、首里の旧王城(注・かつての国宝)がいかに美しかったかについては、私はまったく知らない。(中略)いまは、想像するしかない。(中略)私の想像の中の首里は、石垣と石畳の町で、それを、一つの樹で森のような茂みをなす巨樹のむれが、空からおおっている」  

 これは、作家の司馬遼太郎が『街道をゆく6 沖縄・先島への道』(朝日文庫)というエッセー集の中で、首里について記したものだ。『街道をゆく』シリーズ取材のため司馬が沖縄を訪れたのは、本土復帰してから2年後の1974(昭和49)年のことで、もちろん首里城も復元されていなかったから、司馬は首里の美しさを想像しながらこの文章を練ったのだろう。司馬は続いて、沖縄への思いを以下のように書いた。 「沖縄戦において、日本軍は首里を複廓陣地としたため、ここで凄惨な最終決戦がおこなわれ、このため、兵も石垣も樹も建造物もこなごなに砕かれた。この戦いでは住民のほとんどが家をうしない約15万人が死んだ。沖縄について物を考えるとき、つねにこのことに至ると、自分が生きていることが罪であるような物憂さが襲ってきて、頭のなかが白っぽくなってしまい、つねにそうだが、今もどうにもならない」  

 このエッセーから45年が過ぎ、司馬も1996(平成8)年にこの世を去っている。1980年代から復元工事が始まり1992(平成4)年に完成した首里城は、現在美しい観光施設として往時のにぎわいを取り戻した。金城町の石畳につながる内金城嶽(うちかなぐすくうたき)境内の6本のアカギの大木は、まさに「森のような茂みをなし、空からおおっている」状態にある。2000年に沖縄でサミットが開かれ、首里城守礼門が2千円札に使われた。それは当時の自民党政権が、曲がりなりにも沖縄に心を砕いた証のように思える。  

 だが、現在の沖縄は司馬の思いとはかけ離れるように、日本の現代政治の中で取り残されている。間もなく「4・28」という戦後日本にとっても、沖縄にとっても節目の日がやってくる。67年前の1952年4月28日、日本はサンフランシスコ講和条約に調印し、独立国として主権を回復した。その一方で沖縄は日本から切り離され、米軍の施政権下に置かれたのだ。それは沖縄にとって「屈辱の日」だった。  新札デザインのニュースを見ながら、こんなことを考えた。沖縄の人々はどんなことを思い、考えたことだろう。  

写真 首里城から見た那覇市