小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

559 ポルトガル再び 栄光と没落の西の国

画像 リタイア後は西端の国・ポルトガルで暮らしたいという希望を持った知人がいる。その夢をまだ果たしていないが、彼によれば「かつて地球の裏側まで船を操った冒険者たちが、いまはその残照を浴びて黙々と座っている街(国)…」だというのである。

 9月に旅しながら、つい書きそびれてしまったポルトガル司馬遼太郎の「街道をゆく 南蛮のみちⅡ」を読み返し、思い出している。「南蛮のみちⅡ」は「週刊朝日に1983年8月から12月まで連載されたエッセーで、前半がスペイン、後半がポルトガル編になっている。

 現地に足を運んだ名作の一部である。 私がロンドン経由でポルトガルの首都リスボンに着いたのは9月7日夜遅くのことで、翌8日は朝から市内観光に出かけ、貴婦人がドレスの裾を広げている姿にたとえて、司馬さんが「テージョ川の公女」とエッセーに書いたベレンの塔や海洋発見記念碑、ジェロニモ修道院を見た。 知人の言うかつての冒険者たちはベレンの塔の近くの海に突き出た「海洋発見記念碑」の中で見ることができる。

 ポルトガルを世界の航海国にしたエンリケ航海王子をはじめ、ヴァスコダ・ガマやフランシスコ・ザビエルらがいる。 大航海時代(15世紀から17世紀)の中心を担ったのはポルトガルとスペインだ。この時代、スペイン生まれの宣教師・ザビエルは、ポルトガル王の依頼でインドに派遣され、その後日本にまでやってきてキリスト教を伝えた。1549年のことだ。 記念碑の広場の地図には、ポルトガル人が日本(豊後、いまの大分県)に漂着した年号(1541年)が日本地図とともに彫ってある。この年号には諸説があって、確たる裏づけはないという。

フィリッピン群島の南にあるモルッカ諸 島の司令官だったアントイオ・ガルバノの『世界探検史』の中に、ヨーロッパ人による日本の発見は1541年と書かれているので、広場の年号はこれに従ったという説がある)

 かつての栄光はいまのポルトガルにはない。多くの植民地は1975年に一挙に失い、経済状態はEU加盟国の中の平均以下だ。近代ポルトガル最大の詩人といわれるフェルナンド・ペソーア(1888年―1935年)はそれを予言したように書いている。 ―私たちポルトガル人は、子どものころ学校で、ポルトガルの過去のすばらしい瞬間について学ぶ。それは何世紀にもわたる大航海と、海に浮かぶ魅惑的な島々の物語であり、ポルトガル人の喜びと悲しみの歴史である。― 大航海時代から数百年を経ていま、日本は経済的にはポルトガルを追い越し、観光で訪れる日本人も少なくない。知人のようにこの国で住みたいという人もいるのだから、ポルトガルは日本人には「遠くて近い国」なのである。画像