小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1757 知的好奇心あふれる人たちとの出会い なぜ本を読むのか

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 人はなぜ本を読むのか。それぞれに考え方はあるだろう。ルネサンス期の哲学者、ベーコンの考えは一つの見識でもある。それは時代が変わっても共感できる部分が少なくない。スマートフォンの時代となり、読書人口は減っているといわれる。だが、やはり読書は人生にとって欠かせない重みを持つ。  

 ベーコンは読書に関して、『ベーコン随想集』「50 学問について」(岩波文庫・渡辺義雄訳)の中で以下(要約)のように述べている。

「書物は(1)反論し論破するために、(2)信じて丸吞みするために、(3)話題や論題を見つけるために―― 読んではならない。熟考し熟慮するために読むがいい。ある書物はほんの一部だけ読むべきで、他の書物は読んでも念入りにしなくてもよく、少しの書物が隅々まで注意深く読むべきものだ。読書は充実した人間をつくる(英文学者の福原麟太郎は、読書は満ちた=心豊かな=人をつくる=と訳した)」    

 ベーコンのこの随想は、私にとって耳の痛いものだ。つい3つの読んではならない読み方をしてしまうからだ。私だけでなく、人はともすればこのような本の読み方に陥ってしまっているのではないだろうか。そんな反省をしながら、現在読んでいるのが梨木香歩の『僕は、そして僕たちはどう生きるか』(岩波現代文庫)である。吉野源三郎の名著『君たちはどう生きるか』の主人公と同じ中学2年生で、あだ名も一緒のコペルという少年が登校拒否の友人宅で1日を過ごす中、生きることについて考える物語である。「熟考し熟慮するために」読む本でもある。  

 最近読んだ小林照幸の『ひめゆり 沖縄からのメッセージ』(角川文庫)も、重い内容の本だった。2人の元女性教師の生き方を軸に、県民4人のうち1人の割合で犠牲になった沖縄戦と沖縄の激動の戦後史を描いていて、まさしく隅々まで注意深く読むべき本だった。直木賞を受賞した真藤順丈の『宝島』でクローズアップされた「戦果アギャー」(米軍基地に忍び込んで物資を盗み出す者たち。戦果をあげる者という意味))についても、当然触れている。この本を読めば、名護への米軍基地建設の是非をめぐる県民投票で、建設反対の票が70%を超えた背景が理解できるはずである。  

 私の周囲には年齢に関係なく学び続ける人が少なくない。過日、そんな友人たちが集まった。遠方山形からの参加者をはじめ、知的好奇心あふれる人たちの集まりだった。一生に一度は本を書きたいという夢を間もなく実現させようとしている人、白血病と闘う患者たちを音楽と朗読で慰め、励ますために音楽ボランティアの会をつくったという人、芸術学や美術、デザイン、文学を学び直している人たち、学芸員の資格を取ろうと奮闘している人、世界のスパイ小説に関する評論を書いた若者、カナダの作家、モンゴメリの『赤毛のアン』の村岡花子訳を原文と比較しながら考察した評論を書いた人もいた。

 スポーツ新聞社でアルバイトしていて、私のかつての勤務先である共同通信からファクスで届いた原稿をデスクに届けていたという話をしてくれた人もいた。この人たちはいずれもが熟考し熟慮するために本を読み続けているに違いない。話を聞きながら、そんな顔をしていると思った。

「私が人生を知ったのは、人と接触した結果ではなく、本と接触した結果である」。古本屋のひとり息子として生まれ、1921年にノーベル文学賞を受賞したフランスのアナトール・フランスは、こんな言葉を残している。振り返ってみると、私自身もかなりの部分で本によって人生を知ったといえるから、本は友達と同様に大切な存在なのである。    

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