小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1720 公園のベンチが書斎に 秋の日の読書の楽しみ

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 近所の公園ベンチで読書をした。秋の日差しが優しく、ぽかぽかと暖かい。時々、近くの林からヒヨドリのさえずりが聞こえてくる。歩いている人はほとんどなく、さらに眠くもならないから、頁はどんどん進む。なかなかいい環境だ。これまで多くの読書時間は、通勤の行き帰りの電車の中だった。かなりの喧騒状態でも、読書に集中すれば音は気にならない。この環境とは逆の中で、秋の日の1時間を送った。  

 読んだのは、仙台出身の作家、佐伯一麦の『空にみずうみ』(中公文庫)という小説だ。佐伯はいまでは数少ない私小説の作家といえる。この作品は小説家と染色家夫妻の日常をさりげない筆致で記した印象が深く、野生植物を中心にした植物園、野草園(小説では市名は出てないが、仙台市)近くに住む主人公夫妻の1年間の日常を四季折々の自然(特に樹木や草花、昆虫など)や食べ物(栃餅やタケノコのこと)、近隣の人たちとの触れ合いを織り交ぜ、淡々と描いている。  

 私は以前、仙台で暮らしたことがある。もちろん野草園にも何度も行ったことがある。だから、この小説に親しみのようなものを感じながら読むことができた。終始静かな日常が描かれ、最後まで盛り上がりはない。だが、じっくり読んでみると、実に味わい深く、日常の描写もきめ細かい。主人公が好きな欅についての「春の芽吹きから、若葉が萌え出、青葉を繁らせ、秋には紅や黄に葉の色を変え、最後に金色に輝いてから落葉しはじめ、裸木となるまで、一日として同じ姿をしていることはない」という表現のように、含蓄ある言葉が並んでいるのだ。  主人公が繰り返し聴くという、ポーランドの作曲家、ヘンリク・グレツキ交響曲第3番を、私は全く知らなかった。音大出身者は別にしてグレツキという現代音楽の作曲家を知る人はそう多くはないのではないか。私はグレツキを知っただけでも、この小説を忘れないはずだ。  

 東日本大震災後に新聞連載されたものであり、当然、震災にも触れている。ただ大上段から描くことはなく、静かな筆致で綴られている。最終章「四年ののち」は震災から4年が過ぎた日常を、震災当日の避難の様子の回想も交えて描かれ、4年が過ぎる朝の光景には「東北生まれの詩人」(福島県出身の長田弘)の詩が引用されている。  

〈朝起きて、空を見上げて、/空が天の湖水に思えるような/薄青く晴れた朝がきていたら、/もうすぐ春彼岸だ。/心に親しい死者たちが/足音も立てずに帰ってくる。〉

 本の題名『空にみずうみ』はこの詩からの連想のように思える。  

 この本を読み終えて、ヘルマンヘッセの「書物」という詩を思い出した。  

〈この世のどんな書物も  きみに幸せををもたらしてはくれない。  

 だが、それはきみにひそかに  きみ自身に立ち返ることを教えてくれる。  

 そこには きみが必要とするすべてがある。  太陽も 星も 月も。  

 なぜなら きみが尋ねた光は  きみ自身の中に宿っているのだから。  

 きみがずっと探し求めた叡智は  いろいろな書物の中で  今 どの頁からも輝いている。  

 なぜなら今 それはきみのものだから。〉

   (岡田朝雄訳『ヘッセの読書術』・草思社文庫より)

 

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