小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1586 「読書は人をつくる」 時間の無駄では決してない

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「読書は満ちた人をつくる」という言葉が好きだ。イギリスのフランシス・ベーコンの『随想集』にあり、原文は「Reading maketh a full man」だ。岩波文庫の渡辺義雄訳は「読書は充実した人間を作り」とあり、英文学者の福原麟太郎は『読書と或る人生』(新潮選書)の中で「満ちた人」とは「心豊かな人」だと書いている。

 書店が地域に1店舗もない「書店ゼロ自治体」が増えている―という新聞記事を読んで、読書に関する本を引っ張り出すと、冒頭の言葉が飛び込んできた。書店が減っているということは、読書をする人も減っているに違いない。心寂しい、そんな時代なのである。  

 記事によると、書店が全くない自治体は北海道(58)、長野(41)、福島(28)、沖縄(20)、奈良(19)、熊本(18)の順で多く、ほとんど町村だ。ただ、人口が町村より多い市でもゼロの自治体があるという。書店がなくても希望者は通販で購入できるほか、地域の図書館に行けば本を借りることができる。とはいえ、やはり、書店がなければ本に親しむ機会は減ってしまうと思うのが普通だ。

「小説は時間の無駄だから読まない」ことを公言している人を知っている。とはいえ、その人は読書が趣味で小説以外の分野の本を広く深く読んでいたから「満ちた人」だっただろう。私は小説も読むし、ノンフィクションも読む。ほかの分野でも興味がある本は目を通す。

 作家、北村薫は小説について「小説が書かれ読まれるのは、人生がただ一度であることへの抗議からだと思います」(『読まずにはいられない』新潮社)と述べている。 なるほどと、思う。小説を読めば自分とは違う人生があることを知り、人生に対する見方が変わるはずだからだ。判断力を身につける糧にもなるだろう。そんなわけで、私は小説や文学作品を読むことは時間の無駄ではないと思うのである。

「人間が自然から贈られ得たものではなく、自分自身の精神からつくり出したたくさんの世界の中で、書物の世界は最も広汎で高い価値をもつものである」(ヘルマン・ヘッセ『読書の楽しみ』草思社文庫「本の魔力」より)。現在、書店は大型化が進み、小規模店は淘汰されつつある。郊外に大型スーパーができて、駅前の商店街が衰退化し、シャッターが閉まった店がほとんどの「シャッター通り」が珍しくないことと共通している。文化の担い手としての書店の変化、減少は後世にどんな影響を及ぼすのだろうか。

 大学の文学部は必要ないという議論がつい最近あったことを思い出す。物事を深く考える手がかりを学ぶ文学部が不要という議論は、文化のレベルを低下させる以外の何物でもない。かつて自ら書店に顔を出し、何冊もの本を購入し、教養を深めた首相がいた。大平正芳氏である。大平氏の国会での答弁は原稿なしでも立派な文章になっており、速記者たちから「あー、うーを除けば完璧だった」(菊地正憲『速記者たちの国会秘録』新潮選書)と評価されている。

 宴会政治を繰り返し、官僚が書いた原稿を棒読みし、時には質問者に野次を飛ばす現首相とは、大違いである。

 写真は、飛行機から見た朝の富士山