小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1756 消えゆく校歌 ラオスとベトナムで歌い継がれる2つのメロディー

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 いま、日本の各地から懐かしいメロディーが消えつつある。校歌である。少子高齢化に伴う人口減少、東京をはじめとする大都市圏への人口の一極集中などによって公立学校の廃校が相次いでいるからだ。当然、校歌を歌う子どもたちの姿は少なくなり、校歌は卒業生の思い出の中に残るだけになってしまう実情が続いている。こんな中、福島県で間もなく廃校になる小学校と統合で消えた小学校の2つの校歌が東南アジアの山岳辺境地帯で歌われているという。嬉しい話題である。どんな経緯があったのだろうか。  

 文科省の発表によると、原発事故に見舞われた福島県では2002年から2015年度までに全国で10番目に多い158の小学校が廃校になった。福島市に拠点があるNPO特定非営利活動法人シーエスアールスクエアCSR2)の宍戸仙助理事長は元教員だ。宍戸さんが40年前初めて教諭として勤務した石川郡浅川町立里白石小学校もことし3月末で廃校になる。浅川町に隣接する石川町には高校野球で知られる学法石川高校がある。甲子園に何回も出場したから、高校野球ファンに知られた高校だ。当然、里白石の小、中学校で学んだあと学法石川に学んだ人は珍しくないはずだ。  

 CSR2は主として福島県や東京都の小中学校の児童生徒や保護者を対象に出前授業と講演会を行い、東南アジアの山岳少数民族の村々でたくましく生きる子供たちの様子を伝え、募金や文房具、スポーツ用具を現地(ベトナムラオス)の子どもたちに贈る活動をしている。宍戸さんは小学校の教師を長く務め、校長で定年退職した後、東南アジアの山岳地帯に学校を建設する事業を進める認定NPOアジア教育友好協会(AEFA・東京)で活動した。2017年にCSR2を設立、国際交流の大切さを訴え続けている。  

 その一環で2018年10月、思い出の多い里白石小で出前授業をした。この時、同小が閉校になることを知った宍戸さんは、初めて教師として歌った懐かしい校歌が消えてしまうことに胸を痛めた。それは伝統が消えることである。でも、外国で歌い継がれたら素晴らしいことだと考えた。それには先例があったのだ。  

 2009年、当時宍戸さんが校長を務めていた福島県南部の東白川郡矢祭町立東舘小学校はAEFAの仲介でラオス南部のサラワン県ナトゥール村のナトゥール小学校と交流をしていた。ラオスの小学校に校歌がないことを知った宍戸さんは同年9月、AEFA関係者とともに同小を訪問した際、東舘小の子供たちが歌った校歌の録音テープと、ラオス語に翻訳した歌詞を贈った。この歌が後に同小の校歌となり、さらにナツーゥル村の村歌として子どもたちから大人にまで歌い継がれているのだという。矢祭町は児童数の減少で2016年に5つの小学校が統合、矢祭小が誕生し、現在は、指揮者の小林研一郎氏が作詞作曲した新しい校歌が歌われている。こうして東舘小の校歌は消えたのだが、今はラオスの山岳地帯で歌われているのである。  

 ラオスのこうした体験をベトナムで再現できないかと、宍戸さんは考え、12人の里白石小の子どもたちが歌った校歌の録音を12月中旬、交流をしているタンビン郡のクァンナム省のマックディンティ小学校の音楽教師にメールで送ってみた。12月末、宍戸さんは里白石小から預かった募金や文房具を持ってマックディンティ小を訪ねた。中部のダナンから車で2時間のこの地区は、洪水のため大きな被害を受けていたが、120人の子どもたちが学校の前に集まっていて宍戸さんが車から降りようとすると、一斉に歌を歌い始めたという。それは日本語であり、あの里白石小の校歌だったのだ。  

 宍戸さんはどのような反応を示しただろうか。宍戸さんのフェースブックには泣きながら「ガムオン。シー、ガムオン」(ありがとう。本当にありがとう)と叫んだことが記されている。宍戸さんが音楽担当の教師と校長に「日本語で歌い続けることは難しいと思うので、ベトナム語の歌詞をつけてくださいとお願いしてきた」とも書かれている。宍戸さんは、東舘小とナツーゥル小のケースと同じように、里白石小の校歌もマックディンティ小の校歌として歌い継がれることを信じている。歌われる言葉は変わっても、懐かしいメロディーはベトナムの山岳地帯に響き渡るはずだ。

608 復活した校歌の物語(1) 執念の校長の調査

844 心に響く「歌」と「絵」 やすらぎをもたらす2つの美 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

 以下は2010年にある媒体に私が書いたラオスの校歌誕生物語の文章です。

「教室に響く子どもたちの歌声 ラオス・小学校の校歌誕生物語」  

 3月は卒業式シーズンだ。日本各地で校歌が合唱され、多くの児童、生徒、学生が巣立っていく。自分が学んだ学校の校歌には愛着があり、ふとした折にメロディーが浮かんだりする経験を持つ人は多いはずだ。しかしアジアの途上国、ラオスの学校には校歌はない。そんな子どもたちのために、福島県の小学校が校歌をプレゼントしたのは昨年9月のことだった。それから約5ヵ月。子どもたちは贈られた歌を自分たちの「校歌」「村歌」として歌うまでになった。今回は、日本の小学校からラオスの小学校へと受け継がれた「校歌誕生の物語」を書く。  

 ラオス南部の辺境、サラワン県のナトゥール村は幹線道路から未舗装の細い道を入った電気のない地区で、高床式の家が散在する農村地帯だ。この地区にアジア教育友好協会(AEFA)が2008年に建設したナトゥール小学校(1—2年生計62人)がある。先生は若い校長のペッラッコーンさん(22)ともう一人の2人だけだ。AEFAはラオスベトナム、タイなどの山岳部で建設した学校と日本の学校との交流を仲立ちしており、ナトゥール小とは福島県の矢祭町立東舘小学校(宍戸仙助校長)が08年4月から姉妹校になった。  

 宍戸さんは、自分でギターを弾く音楽を愛する先生だ。AEFAの谷川洋理事長が東舘小で出前授業をした際に、2人の間で校歌が話題になった。アイデアマンの2人は、そこで東舘小の校歌をナ小にプレゼントしようと思い立つ。宍戸さんは早速、ラオス語を専攻した日本貿易振興機構(JETRO)職員に東舘小の校歌をラオス語に翻訳することを依頼した。「恵もひろき久慈川の・・・」(山本正夫作詩・作曲)と、やや難しい表現がある歌詞は現代風に直し、矢祭町の地名はラオスの現地の地名に入れて替えてもらった。  

 昨年9月、宍戸さんは谷川理事長やスタッフの金子恵美さんらとともにナ小を訪問した。教壇に立った宍戸さんは、東舘小がどんな小学校かを子どもたちに語りかけ、ギターを使って日本語の校歌を歌い、そのあとでラオス語に直した歌を大きな声でプレゼントした。子どもたちは目を輝かせて宍戸さんの歌に聴き入り、ペッラッコーン校長は子どもたちにこの歌を覚えてもらうと約束した。  

 年が明け、2月にAEFAの谷川理事長と金子さんはサラワン県に建設したワンコイン(500円)の寄付を基にしたポンタン小学校の開校式に出席した際、ナ小にも立ち寄った。すると—。谷川さんや現地NGOのスタッフを前に子どもたちがあのメロディーを歌い出したのだ。5ヵ月前に宍戸さんがギターで歌った東舘小の校歌だった。ナ小のペッラッコーン校長は「CDラジカセを何度も聴いて、1週間くらいで覚えた。でも、子どもたちに教えることは大変でした。一生懸命に教えたんです」と、谷川さんらに打ち明けた。

 子どもたちは「日本の人が作ってくれ自分の村の歌(校歌)ができたので、うれしいよ」と元気に答える。ペッラッコーン校長は、谷川さんらに「日本の子どもたちと文化を共有し、いろんな交流をしたいですね」と、夢を語った。この後、現地NGOのスタッフのクムカムさんが、東舘小学校の「ひがしだて」の発音を教えると、子どもたちはすぐに覚えて「ひがしだて、ひがしだて」の大合唱が教室内に響き渡った。  

 うれしい現場に立ち会った谷川理事長は、その感想を「学校が育つ」という表現で話してくれた。「先生によって学校が建物だけでなく本当の学びの場として育っていることを実感した。子どもたちの新しい挑戦に対するひた向きさ可能性が伝わってきた。こういう学校を増やしたい」と。金子さんも「すてきな笑顔で応えてくれた先生と子どもたちに感謝します。行く前には、子どもたちはまだ校歌を歌うことはできないと聞いていた。せめて、ララララ・・・とメロディーで一緒に歌えたらいいなあと思っていたので感動しました」と、驚きを隠さない。     

 子どもたちが歌を好きなことは万国共通である。歌は感性を豊かにさせてくれる。そうは言っても、宍戸さんには「日本から校歌を持っていって、歌ってくださいというのは、押しつけがましいのではないか」という思いもあった。それだけにAEFAからこの話を聞いた宍戸さんは感激した。早速、4年生と相談してナ小の子どもたちに楽器を贈ろうと、町の人々に呼び掛け、楽器を集める運動を始めている。それが新聞に載り、リコーダーやハーモニカなどを提供したいという申し出が県内から相次いでいるという。

 新聞でこの運動を知ったという女性からは、鍵盤ハーモニカと笛が届き、手紙が添えてあった。「東舘小学校 4年生の皆様 このメロディオンと笛は、私の息子2人がかつて小学校で使ったものです。二男は、昨年8月、35歳で亡くなりました。息子が使っていたものが一つずつなくなっていく中で、名前がきざまれた笛がラオスの子供さんの手に渡って、メロディーが奏でられると思うと喜びもひとしおです。4年生の皆様のご活動に感謝します」  

 宍戸さんは、これまでの交流を振り返りこう述べている。「紺碧の海と青い空をはさみ、5400キロも離れた日本の矢祭町とラオス南部、サラワン県ナトゥール村の小学校の子どもたちが『こころ』で結ばれて、同じ旋律の歌を口ずさみ、互いに励まし合う。このラオス版東舘小学校校歌は、ナトゥールの『村歌』になるという。これほどまでに、私たちの『夢と希望』に満ちた『つながり』が育っていることに感謝したい」

 校歌が日本の学校でいつから歌い出されたのかよく分からない。明治時代から一部の大学で歌われ始め、それが次第に広まったらしい。有名な詩人や作曲家が作った校歌も少なくない。そんな校歌と比べても遜色ないほどナ小の校歌は価値があり、輝いている。東舘小学校の校歌を作曲した山本さんは、長い時を経て、自分のメロディーが海を渡り別の言葉で歌われるとは思ってもいなかっただろう。だが、そのメロディーはラオスの山岳地帯の輝く瞳を持った子どもたちによって、長く歌い継がれることになるはずだ。