小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1758 ほろ苦い青春の一コマ 肘折こけしで蘇る

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 先日、友人たちとの会合で懐かしい地名を聞いた。「肘折」(ひじおり)という知る人ぞ知る地域だ。山形県最上郡大蔵村にあり、温泉とこけしで知られている。日本でも有数の豪雪地帯で多いときは4メートルを超すというが、今日現在の積雪量は約2・3メートルだから、この冬は雪が少ないようだ。私の家には数本のこけしがあり、その中に「肘折 庫治」と書かれた1本も含まれている。肘折系こけし工人で著名な奥山庫治の初期の作品なのだが、このこけしを見る度にほろ苦い経験を思い出す。  

 今から45年前に遡る。1974(昭和49)年4月のことである。大蔵村赤松地区の松山(標高170メートル)が崩れ、土砂は住宅20棟を飲み込み、下敷きになった住民17人が死亡、13人が重軽傷を負う惨事になった。当時、共同通信社の駆け出し記者として仙台支社に勤務していた私は、他の記者やカメラマンとともにこの事故現場に急行し、数日間不眠不休で取材に当たった。  

 現場の山形県は山形支局のカバー内にあるのだが、支局は記者の数が少なく大きな事件事故が発生すると、仙台支社から応援に行くシステムになっていた。それは今も変わらないはずだ。私はこの年の3月、福島支局がカバーする福島県三島町で発生した国道の土砂崩れ事故現場にも駆け付けた。建設中だった国道の防護壁が雪解けのため崩れ落ち、通行中のマイクロバスと乗用車2台を直撃、8人が死亡、2人が重軽傷を負ったのだ。三島町福島県会津地方にある豪雪地帯で、車で取材に向かう道路の両脇にはうず高く雪が積もっていた。  

 大蔵村の山崩れ事故取材では、小学校の校長先生の好意で教員室の床で2泊した。3日目の夕方、取材が一段落し私たちは、同じ村にある肘折温泉に1泊した。肘折の宿で求めたのが奥山庫治のこけしだったのだ。仙台の大学に通っていて、帰省中だった宿のお嬢さんは私たちが仙台の記者と聞くと、コーヒーを入れてくれて、取材の苦労話に耳を傾けた。翌日、私たちは山形支局に寄って夕方、社有車で仙台に向かった。山形から仙台に向かうには関山峠(標高650メートル)という交通事故が多発する難所があった。この難所で私たちが乗った車は事故に遭ってしまった。  

 酒酔い運転の車とすれ違う際、接触されたのだ。仙台に向かう道路の左側は深い崖になっていて、接触の弾みで崖下に転落する恐れもあった。だが、こちらのベテラン運転手は動揺せずにすぐに車を止めたから、一歩手前で転落は免れた。幸い、双方にけが人もいなかった。この朝、肘折の宿を出るとき、女将さんが私たちの車に向かって合掌しているのが見えた。帰りの安全を祈ってくれたのであり、その祈りが私たちを救ってくれたのかもしれないと思った。

 翌年、東京に転勤した私は、教員室を提供してくれた校長の息子が重大事件を起こし、警察に逮捕されたという記事を読んだ。読みたくないニュースだった。  

 肘折のこけしは、首から上の部分の頭部は空洞になっていて、中にアズキが入っているという。宮城県の鳴子系といわれ、鳴子のこけしと同様、振ってみるとカラカラという音がする。それは私の青春時代の一コマを思い出させる「郷愁」の音でもあるのだ。