1690 台風一過の午後のひととき プレーヤーに入れたCDはあの曲
台風一過、暑さが戻ってきた。こんな時にはCDを聴いて少しでも暑さを忘れたいと思う。プレーヤーに入れたのは、チャイコフスキーの「弦楽セレナード」(ネヴィル・マリナー指揮、アカデミー室内管弦楽団)だった。実は昨日、友人が演奏者として参加したコンサートでこの曲を聴く予定だった。しかし台風が接近したのに加え急用ができてしまい、出かけることを断念した。そのため、この曲をかけようと思ったのだ。
友人は首都圏のある都市の市民オーケストラでバイオリン奏者として活動している。昨日はその定期公演会で、この曲やモーツァルトの交響曲41番「ジュピター」を演奏した。「弦楽セレナード」は1881年にチャイコフスキーがモーツァルトを意識してつくったといわれるが、いずれにしても明るくて幸福感に満ちた曲である。これから12年後の1893年に完成した交響曲6番「悲愴」は極めて憂愁に満ちた曲であり、私はこのCDをプレーヤーに入れるのをためらうことがある。
友人は別の活動のために、しばらくオーケストラを休団するという。だから、今回のコンサートは特別の意味があったに違いない。そして、この曲とモーツァルトの41番は思い出に残る演奏になったのではないか。
作家でクラッシック音楽を愛好する佐伯一麦(さえきかずみ)は『読むクラッシック』(集英社新書)の中で、デンマークで出会ったタクシー運転手のことを書いている。佐伯がペンネームに「麦」を使っているのは、麦畑を多く描いたゴッホから取ったのだそうだ。「麦畑のように、誰にとってもありふれた見慣れたものを子細に観察して描くことの大切さを、事あるごとに、弟テオに宛てた手紙に書いており、実際多くの麦畑の絵を残している」ゴッホの精神に佐伯は表現の基本を教えられた。こうして佐伯はデンマークに行った際、自分のルーツを見る思いで首都コペンハーゲンからタクシーに乗って麦畑を見に行ったのだという
その時、タクシーの車内には小さなボリュームでハイドンの弦楽四重奏曲が流れていた。「窓を開ければ香り立ってきそうな田園風景に『ひばり』の俗称を持つその曲はいかにもふさわしかった」と佐伯は書く。運転手は佐伯の問いかけに、クラッシックが好きなこと、安全運転のため精神の平静さを得ようといつも小さくクラッシックをかけていると答え、さらに「これがロックかなんだったら、ぶっ飛ばしたくなるような気分になるじゃないか」と言ったそうだ。たまたま佐伯が乗った日、運転手がかけていたのはハイドンだったが、私はチャイコフスキーの「弦楽セレナード」も彼の仕事用の曲の中にノミネートされているのではないかと想像した。
それにしても佐伯にとってこの運転手とはいい出会いだったと思われる。日本にもこんな素敵な運転手がいたらいいなあ……。