小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1789 雨の日に聴く音楽 アジサイ寺を訪ねる

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 きょうは朝から雨が降っていて湿度は高い。ただ、午後になっても気温は約21度と肌寒いくらいだ。それにしても梅雨空はうっとうしい。CDでショパンの「雨だれ」(前奏曲15番 変ニ長調)をかけてみたら、気分がさらに重苦しくなった。仕方なく別のCDをかけ直した。モーツァルトだ。ショパンには悪いが、雨の日もやはりモーツァルトだと思う。

「雨だれ」について仙台在住の作家、佐伯一麦が『読むクラシック』(集英社新書)の中で、私と同じことを書いている。佐伯は高校生のころ、雨が降ると家に引きこもりたくなって学校を休み、この曲に耳を傾けたそうだ。ところが、大人になると……。「正直の所、今はあまり好まなくなってしまった。そもそも雨だれとは、他人が付けた名前で、そう名付けたくなるのも無理もないけれど、この曲から受ける雨の感じは、いかにも重苦しすぎる。悪夢の名残のように、こちらにつきまとって離れない気配がある」

(ブログ筆者注。スペイン、マジョルカマヨルカ島修道院の屋根を打つ雨を描いた作品といわれる。ショパンマヨルカでこの曲を作曲したのは1839年1月のこと。地中海気候のこの島の冬は、日本とは反対に雨が多い季節だ。フランスの作家で男装の麗人ともいわれた恋人のジョルジュ・サンドとともにこの島に滞在したショパンは、肺結核を病んでいたとはいえ創作意欲は旺盛だったそうだ)  

 梅雨といえば、アジサイを思い浮かべる人は多いはず。この花が嫌いだという人もいるだろうが、雨の季節を彩る、6月の花の代表ともいっていい。それにしても、なぜかこの花の名前を冠にした「アジサイ寺」と呼ばれる寺が全国各地にある。

 念のためにネットで検索してみると、ある、ある。北海道から九州まで24の寺をまととめたサイトも。私の地元千葉県でも松戸の本土寺や大多喜の妙法生寺と聞けば、ああ、あのアジサイ寺だなと思う人は少なくないのではないか。鎌倉の明月院東慶寺長谷寺もそうだし、全国には有名、無名含めて100以上のアジサイ寺があるかもしれない。  

 なぜ寺とアジサイなのだろうか。物の本によればこの花は季節の変わり目で亡くなる人の多い6月に仏花として簡単に調達できること、群生するためいくつ切り取ってもなくならないこと、手入れをあまりしなくても境内が荒れないなどの特質が好まれ、寺の境内に植えられた。さらに「四葩(よひら・花びらのように見える4枚の萼の中心に細かい粒のような花をつける)」の別名があり、これが死をイメージすることも寺に合う花として定着した背景にあるようだ。  

 私の自宅から車で15分程度のところに光徳寺(市原市中野)という日蓮宗の寺がある。寺のHPによると、1460(寛正元)年に松戸の本土寺第九世妙高院日意上人によって創建されたというから、中世・室町時代の古刹である。当時の日本は大飢饉に襲われ、おびただしい餓死者が出たことが歴史の汚点として残っている。本土寺は5万本のアジサイで知られるが、こちらの光徳寺のアジサイは1000本とやや少ない。しかし、山門を入ると、両側に18の羅漢像が迎えてくれ、さらに境内を進むと釈迦像を挟むような形で並んだ500羅漢像が目に飛び込んでくる。訪れる人も少なく、ゆったりとした時間が過ぎていく寺である。  

 ところで、いま聴いているのはモーツァルトの《ホルン協奏曲第1番》だ。近年、4曲あるホルン協奏曲の中で自身が亡くなった1791に作曲されたと考えられるようになった未完成の作品だ。だれでもこのメロディを聴けば、うっとうしさを忘れることができるはずです。  

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写真はいずれも光徳寺にて(2枚目は日蓮上人像)  

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