小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1090 鈍牛・知性派首相の生涯 辻井喬・茜色の空

画像 自民党の現職の総理大臣(首相)だった大平正芳氏が急死したのは1980年(昭和55)6月12日のことである。大平内閣の不信任決議案が可決され、衆院を解散した大平氏は、5月30日の公示日、新宿で第一声の街頭演説をしたあと体調不良となり、翌日虎ノ門病院に緊急入院した。一時は回復するかに見えたが、12日朝、容態が急変、心筋梗塞のため70歳3カ月で亡くなった。

 辻井喬の「茜色の空」を読んだ。「鈍牛」といわれ、「アー、ウー」が代名詞だった大平氏の評伝ともいえる小説だ。サブタイトルに「哲人政治家・大平正芳の生涯」とあるように、知性派首相がかつてこの日本にも存在したのだ。

 私事になるが、大平氏が急死した朝、私は勤務先(在京の報道機関)の社会部デスクから電話で呼び出しを受け、世田谷区瀬田1丁目の大平邸に向かった。選挙担当の遊軍記者をしていた私が私邸に行くと、首相番の記者が2人、茫然とした状態で庭につくられた番小屋(記者の待機場所)前でたたずんでいた。

 案内を請うと、秘書らしき人が遺体を安置している部屋に入れてくれた。まだ他の社の記者の姿はなかった。 部屋には大平氏夫人や娘婿の森田一氏らがおり、故人の遺影が飾られていた。私は遺影に手を合わせたあと、しばらく部屋に残り、弔問者の様子を取材した。それにしても全く付き合いのない社会部記者を部屋に入れてくれたのだから、大平家(大平氏はクリスチャン)は開放的だったのかもしれない。

 この直後、大平氏と盟友といわれ、ロッキード事件に問われた田中角栄元首相の選挙を取材した際も、田中氏自身が新潟県西山町の自宅に招き入れてくれ、短時間ながら話をしたことを覚えている。当時(いまもそうだろうが)、社会部記者は政治家の敵だったはずだが、田中氏のあけっぴろげぶりには驚いたものだ。

 それはさておき、大平氏哲人政治家といわれたように、多くの本を読んだという。国会に比較的近い、虎ノ門書房が彼の行きつけの本屋だったそうだ。いま、政治家に大平氏のような読書家がいるのかどうか、私は知らない。

 大平氏の政治家としての師匠は、所得倍増政策で知られる池田勇人元首相だ。沢木耕太郎が「危機の宰相」というノンフィクション作品で池田氏の生涯を描いている。辻井の本はフィクションも一部混じっているとはいえ、志半ばで急死した大平氏の生涯を「等身大」に描き切っている。

 2つの作品を読むと、戦後の自民党政治の断面が浮かび上がってくる。 池田氏と大平氏はともに、首相として政治家の頂点に立った時に病魔に襲われる。とりわけ大平氏は首相在任1年半で実績はあまりない。田中氏とともに、外相時代に実現させた日中国交正常化の方が功績として知られている。

 国交正常化調印直後の記者会見で大平氏は台湾との間で結んでいる日華条約について「調印の結果として、日華条約は存在意義を失い、条約は終了したというのが日本政府の見解だ」と述べている。当時は自民党の右派や右翼は日中国交回復に反対していたから、大平氏は命がけでこの発言をしたのだとメモに記している。

 田中首相の「ご迷惑発言」でこじれそうになった正常化交渉を成功させたのも大平氏だった。 政治の世界は、権謀術数や駆け引きが横行する。そんな世界に生きた知性派首相の生涯を辻井は多くのエピソードを織り交ぜて描いている。佐藤内閣時代の沖縄返還に絡む日米密約問題の西山記者をモデルにした記者も登場させている。

「茜色の空」は、大平氏が首相になってから香川県観音寺(旧・和田村)に帰郷した際、村の見晴台から見た夕刻の海と空の光景だ。小説では「26歳で死んだ(難病のベーチュット病)長男・正樹はあの空の奥にいると思った」と大平氏に語らせている。5年ぶりに首相に返り咲いた安倍晋三氏はいま、朝日を浴びながら歩き出した感じでいるのだろうか。彼は、後年何と呼ばれる首相になるのだろう。