小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1497 五輪哀歌 アナクロとグローバル化と

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 ブラジルのリオ五輪が近づいているせいか、昨今の新聞には五輪関連のニュースが少なくない。朝刊には「国歌歌えぬ選手 日本代表ではない」という見出しの記事があり、夕刊には男子ゴルフの松山選手が「リオ五輪辞退」というニュースが載っていた。これらの記事を読んであらためて五輪について考えさせられた。

 冒頭に掲げた記事のうち、前者はリオ五輪日本選手団壮行会で、2020年東京五輪パラリンピック組織委員会の森喜郎会長が来賓挨拶で話した言葉である。記事によれば、森氏は直前の自衛隊陸士長の女性による君が代独唱の様子を振り返り「どうしてみんなそろって国歌をうたわないのでしょうか。口をモゴモゴしているだけじゃなくて、声を大きく上げ、表彰台に立ったら、国歌を歌ってください」と呼びかけた―という。

 森氏にとって、五輪は国威発揚の場であり、君が代を歌わない選手は許されないということなのだろう。いやはや?である。

 そんな大事な場をゴルフの松山選手は、ジカ熱と治安の不安、虫刺されに強い反応が出る体質などを理由に辞退することを明らかにした。世界ランキングの上位者から出場資格が得られるため、日本から松山選手の出場は確実視されていたという。 ゴルフ界では松山選手より先に、ジカ熱と過密日程を理由に世界のトップ選手たちが不参加を表明している。

 薬物疑惑で国としての出場が絶望的なロシアの陸上選手から見れば、腹立たしい話題だろうが、ゴルフのトップ選手にとって五輪は魅力がないということなのだ。ゴルフのメジャー大会で活躍すれば、巨額の賞金が入る。ジカ熱の心配を押してまで五輪に行く必要はないというわけだ。彼らにとって五輪は最高の舞台ではない。

 かつて五輪について「勝つことではなく参加することにこそ意義がある」(近代五輪の父といわれたクーベルタンが、米国の大司教の言葉を引用して有名になった)と言った時代があった。一部の国では現在もその考え方は残っていて、男子マラソンカンボジア代表になったお笑いタレントの猫ひろしのように、国籍を変えて五輪出場を目指す選手もいる。

 だが、現在のスポーツ界では、参加することにこそ意義があると思う選手は少なくなっている。それがゴルフのトップ選手の辞退という結果に現れたのだと思う。

 1932年のロサンゼルス大会(第10回)の男子ホッケーで、日本チームが銀メダルを獲得したことはあまり知られていない。まさかと思うが、事実なのだ。優勝はホッケー強豪国のインドで、日本が銀、アメリカが銅メダルだった。

 実はこれには笑い話のような裏の事情がある。参加国はこの3カ国だけで、当然インドは2勝、日本はインドに大敗したが、アメリカに勝って1勝1敗、アメリカは1勝もできなかったにもかかわらず、メダルを手にしたのだ。

 インドに対抗する勢力だったヨーロッパ諸国がロサンゼルスは遠すぎるという理由でどこも参加しなかったため、3カ国での寂しい争いになり、日本チームの銀メダル獲得という歴史が残ったのだ(沢木耕太郎オリンピア ナチスの森で』集英社刊から)。

 いま、世界はグローバル化時代になった。そして、オリンピックも国威発揚の時代から商業主義優先の時代に様変わりした。オリンピックの開催都市に立候補しながら、市民の反対で立候補を辞退した都市も出ている。エンブレムや国立競技場問題などケチ続きの2020年東京五輪は、猛暑の季節の開催だ。うまく行くのだろうか。