「われらが花を見るのは、植物学者以外は、この花の真目的を耽美するのではなくて、多くは、ただその表面に現れている美を賞観して楽しんでいるにすぎない。花に言わすれば、誠に迷惑至極と歎つ(かこつ)であろう。花のために、一掬の涙があってもよいではないか」
植物学者、牧野富太郎は『植物知識』(講談社学術文庫)の中で、こんなことを書いている。私も牧野が言うように、花には迷惑な、表面の美を楽しんでいる一人である。しかも花の名前もよくわからないままにである。
そのことに散歩コースにことしも咲いた花を見つめて気がついた。これまで、夕菅と思っていた花がいま咲き誇っている。数年前に初めて見たころは少なかったのに、ことしはやけに株が増えている。旺盛な繁殖力があるのだろう。 その花を図鑑で見て「夕菅」と思い込んだ。
俳句歳時記には「夕菅や叱られし日の懐かしく」(伊藤敬子)など、懐かしい思いにさせてくれる4句が載っている。だが先日、朝の散歩から帰って、インターネットで夕菅の画像を検索してみると、さっき見た花とは微妙に違うことに気が付いた。
様々なページを調べると、「ヘメロカリス・レモネード」というのが酷似していることが分かった。どう見ても、夕菅よりもこちらではないか。ヘメロカリス(ギリシア語の「一日」の「へメロ」と「美」の「カロス」)を合成)は、ユリ科ヘメロカリス (ワスレグサ) 属の総称で、長い花筒部がある。ユリに似た花をつける夏緑多年草で、日本や中国原産のユウスゲやカンゾウ類(ノカンゾウ、ヤブカンゾウなど)から品種改良で生まれたという。花が一日でしおれてしまうことから「デイリリー」とも呼ばれるそうだ。
夕菅なら、俳句や詩にしても格好はつく。しかしヘメロカリスでは俳句にならない。詩にしても名前だけで花を連想する人は、あまりいないはずだ。でも、この花を朝の散歩で見ると、なぜかこころが和むから不思議である。 雑草が生い茂る中、黄色い花は存在感をアピールする。
ヘルマン・ヘッセは黄色い花についてこんな詩を書いている。
黄色い花は毎朝、そっそかしくて、愚かな私の姿を見つめているのかもしれない。 小川のほとり 赤い行季柳のうしろに この数日 数知れぬ黄色い花が 金色の眼を開いた。 そしてとうに純潔を失った私の 心の奥底で あの記憶が 私の人生の金色の朝の時間の記憶が目覚め 花の眼の中から私をまじまじと見つめる。 あのころ私は花を手折りにゆこうと思ったが 今は彼らをすべてそのままにして ひとりの老いた男 私は家に帰る。 (『庭仕事の愉しみ』「はじめての花」より)
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