小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1628 五輪を巡る友情物語  誇張されたストーリー

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 スポーツ大会の頂点ともいえるのがオリンピックだ。出場した選手たちは互いに技を競い、優劣を争う。それがメダルへとつながる。だから、選手にとって戦う相手はライバル(競争相手や好敵手)だ。韓国の平昌冬季五輪で金メダルを獲得した2人の日本人選手に関する友情物語がメディアを賑わしている。そのニュースを見ながら、学校の教科書に載っていた五輪を巡る友情物語を思い出した。  

 18日夜行われたスケート女子500メートルで小平奈緒が金メダルを取った。小平は自分がオリンピック新記録で滑り終えた後、興奮する観客たちに対し、唇に人差し指を当て「静かに」という仕草をした。韓国の優勝候補、李相花が小平の後の組で滑るための気遣いだった。小平は、競技が終わって銀メダルになり、泣いている李を抱き締め、「私はまだあなたのことをリスペクト(尊敬)している」と語った。このように2人は互いに尊敬しあい、これまで友情を築いてきたことが、いくつかのエピソードとともに報道されている。小平の表情は、ひたむきさにあふれている。この友情は本物だと確信する。    

 フィギュアスケート男子個人で2大会連続して金メダルを取った羽生結弦についても、同じカナダ人コーチの下で練習を重ねてきた銅メダリストのフェルナンデス(スペイン)との抱擁シーンなど、友情関係が報じられた。メディアの報道は「美談」を狙うあまり、誇張して描かれることがあるが、小平と羽生のケースは後世、どのように伝えられるのだろう。  

 日本オリンピック委員会(JOC)のホームページの「フェアプレー」というページに有名な友情物語が載っている。ナチス・ドイツ国威発揚のためのオリンピックといわれた第11回ベルリン夏季大会(1936年)男子棒高跳びで銀と銅のメダルを獲得した西田修平と大江季雄が帰国後、それぞれのメダルを半分に割り、つなぎ合わせたメダルにしたという、「友情のメダル」だ。JOCのHPには、その話が以下のように記されている。

《1936年のベルリン大会。棒高跳び決勝は、大江季雄、西田修平という二人の日本勢を含む4人の争いとなりました。アメリカのメドウスが4メートル35を跳び、金メダル確定。大江、西田両選手の記録はともに4メートル25でしたが、「日本人同士で争うことはない」と2、3位決定戦を辞退しました。ここまで5時間以上に渡る大接戦で、二人とも疲れ果てていたのです。  

 日本側は、先にクリアした年長の西田を2位、大江を3位と届け出て、これが公式記録として認められました。競技翌日の表彰式では、西田は後輩である大江に2位の表彰台に立つよう指示しました。「次の東京大会で頑張ってほしい」という激励の気持ちからだったといいます。  

 帰国後、二人は銀と銅のメダルを半分に割り、つなぎ合わせたメダルに作り直しました。しかし、1940年東京大会は第二次世界大戦のために中止。大江は41年にフィリピンで戦死しました。二人の思いは戦争によって断たれてしまいましたが、つなぎ合わせたメダルは「友情のメダル」として今も人々の記憶に刻まれています。》  

 沢木耕太郎の『オリンピア ナチスの森で』(集英社)は、2人の話をもう少し掘り下げている。JOCのHPでは、日本側が西田2位、大江3位と届け出たとあるのだが、西田自身が順位決定戦を放棄したのは、2人とも2位にしてくれるだろうと思っていたこと、帰国後銀と銅のメダルを2つにして2枚作ったのは、「2、3位の決着がついてない以上、どちらがどちらのメダルをもらうか決めることができない。だから半分ずつにしたに過ぎない。ごく単純な物理的作業だったのだ」というのである。  

 西田にとってこれが「友情のメダル」として教科書に載るような美談として伝えられたのは心外なことだった、とも沢木は書いている。沢木は晩年の西田に取材したうえで書いているから伝えられてきた「友情のメダル」は誇張された物語だったともいえる。

 オリンピックはメディアの記者の腕の振るいどころである。面白い記事があれば読者は喜ぶ。しかし、誇張した記事は、いつかは色あせる。

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