小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1473 羽根つきギョーザと歩んで32年 ニーハオの原点は「後援会」

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 東京・蒲田の「你好」(ニーハオ)といえば、羽根つき餃子でかなり知られる存在だ。この店がオープンしたのは1983年12月のことで、32年の歳月が過ぎている。オーナーである八木功さん(81)のたゆまない努力がニーハオを成功に導いたのだろう。一時休んでいた八木さんの原点ともいえる「你好本店」が近く再開されることになり、先日、32年前を知る人たちが集まり、八木さんを囲んで懐旧談に弾んだ。

 経済界では起業に成功し、一代で大会社へと成長させた立志伝中の人はかなりいる。だが、昨今、そうした企業経営者が経営判断の違いから、親族や会社幹部と対立する事例がメディアをにぎわしている。中国・大連から帰国してから苦労してニーハオを始めた八木さんは、現在9店舗を持つ人気中華料理店の経営者であり、立志伝中の人といっていいだろう。だが、醜聞としてニュースで取り上げられるような経営者とは違う。

 現在でも割烹着を着て餃子を作る日々を重ねる一方、店の運営は子どもたちに任せ、新しい料理の研究に明け暮れているのだ。

 八木さんによると、ニーハオが新聞、テレビ、雑誌で取り上げられるようになると、さまざまな客が来たという。料理を食べたあと、勘定を払う段階で2人組の1人が急に腹痛になったと叫び出し、その暴力団員を警察が連行する騒ぎとなったり、頼んだ料理の順番が違う、料理の中身がおかしいとイチャモンを付けたりする客もいた。

 税務署の係官が店に連続して詰め、客の出入りを調べたこともあったが、餃子のうまさや安さがクチコミで広がり羽田空港に勤務する航空会社の社員らをはじめとする常連客が増え続けた。 八木さんを支えたのは、店を始める際に結成された「你好後援会」だった。八木さんの子どもたちが通った日本語学級の教師たちが中心になって呼び掛けて開店資金をカンパしたのだ。八木さんはこうした人たちの応援に応え、ニーハオを餃子の人気店に成長させた。

 原点ともいうべき第一号の「本店」は、八木さん自身の手で内装を施した小さめのスペースで、開店直後から順番待ちの人たちが列をつくっていた。以後、蒲田だけでなく、埼玉県志木市まで店舗を持つようになり、現在では9店舗を運営している。「本店」は中国からのコックの手当てが付かずにしばらく休んでいたが、店内の改装が終わり近く再開するという。

 八木さんは、自力で帰国したため中国残留日本人孤児とは認定されていない。だが、これまでの半生は残留孤児とよく似ている。その間の事情は下段のブログに詳しいが、労苦をものともせずここまで歩んできた姿を見ていると、ただ者ではないと実感する。ギョーザの達人であると同時に人生の達人なのである。你好後援会の人たちの名前が入った大きな額は、いまも本店に飾られている。八木さんにとって、それはのれんと同じように大切なものなのかもしれない。

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