小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

830 「私は助かった」 偶然が重なり死の淵から生還

画像

 宮城県気仙沼市大島の旅館「黒潮」は二次避難所になっていて、津波で家を失った人たちが暮らしている。島おこしのボランティア活動をしながら、この旅館を営む堺健さんも、3月11日はフェリーで気仙沼に渡っていて命を落とす寸前の体験をしたという。

  堺さんは牡蠣の養殖業者ら4人と大島と唐桑半島の2カ所で中粒の牡蠣の養殖も手掛けている。唐桑の方の牡蠣の商品化の見通しが立ち、その第一便を埼玉県熊谷市の居酒屋に送ろうと、地震のあと牡蠣を軽トラックに積んで気仙沼市幸町の宅配店に向かった。以下は堺さんの証言だ。

……………………………………………………………………………………………………………………………………………

 車を運転していると「ゴー」「ガタガタ」という不気味な音が聞こえました。気がつくと車の後から重油混じりの黒い水とがれきの山が迫ってきたのです。「津波だ」と思い、アクセルを思い切り踏みました。でも津波はどんどん迫ってくるのです。これはもう助からないかもしれないと思いました。

 すると、前を走っていた車が急に右折したのです。私はこの前の車に続いて、右にハンドルを切りました。そのうち、車が止まってしまいました。何とがれきの上に乗り上げていたのです。まだ水は来ていませんが、車のドアはあきませんでした。がれきがドアを挟んでいたのだと思います。その時、私は意外と冷静でした。車のエンジンがかかったままだったことに気付いたのです。よし、これだと思いました。パワーウインドーが作動するだろう。

  その通りでした。窓は奇跡的に開いたのです。私はここから身を乗り出し、倒れた民家の屋根をつたいながら高台を目指して懸命に逃げました。そして市民会館へたどり着いたのです。

  そこは避難した人たちでいっぱいでした。でも、大島へ帰るフェリーはもちろん動いていません。あとで知ったのですが、全部のフェリーが陸へ打ち上げられたり、流されたりしてしまったのです。そのために市民会館で4日間避難生活をしました。大変な混乱でした。最初の2日間食べ物はビスケット5枚しかありませんでした。こんな経験をするとは夢にも思いませんでした。

  でも、命が助かったことに人間の運命のようなものを感じました。私の場合、右に曲がって大きな津波から逃れ、車ががれきの下敷きにならずに上に持ち上げられ、さらにエンジンが切れずに窓が開いた―という3つの運が働き、助かることができました。

  どうして、このようになったのか私には分かりません。

……………………………………………………………………………………………………………………………………………

 今回の東日本大震災では、堺さんのように死の淵から危機一髪、生還した人は少なくない。一方で生への希望を断たれた人たちは2万3000人に上る。被災地では悲しみが癒えることは当分ないだろう。それでも堺さんは後世に、島の人たちのつらく、悲しい体験を伝えようと、聞き書きを始めている。