小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1122 続・旅の終わりに 被災地・気仙沼と陸前高田にて

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 石川と新潟の旅で私の旅人生に区切りをつけるつもりだった。だが、その直後に東日本大震災被災地への旅の話が舞い込んだ。そうして、訪ねたのが岩手県陸前高田市だった。あらためて書くまでもなく、陸前高田は大震災の津波で甚大な被害を受けた。

 市の発表によると、3・11当時の人口24,246人のうち1,735人が震災で亡くなり、14人が行方不明、464人が震災関連で亡くなっている。この街に隣接する被災地・宮城県気仙沼から重い気分で車に乗った。

 気仙沼は大震災直後に訪ねた街だった。当時、がれきが街を占拠し、魚の腐った臭いが辺り一面に漂っていた。現在も港近くの鹿折地区には津波で打ち上げられた漁船がそのまま残っていた。報道によれば、この漁船は解体されることが決まったそうだ。船の近くでは観光客らしい人たちがカメラを構えていた。

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 陸前高田市は「奇跡の一本松」が有名になった。松原でただ一本だけ、津波に耐えて生き残った松があり、これが奇跡という言葉を生んだのだ。この松も根が潮にやられて枯死してしまったが、市は寄付を基に保存基金を創設し、1億5000万円で保存する計画を立て、防腐処理をした松はモニュメントして現地に残された。この松はいまや観光旅行の人たちのコースに入っているらしく、私が歩いていくと、ツアー会社のバッヂを付けた人たちが続々とモニュメントに向かっていた。

「こんなものつまらん」。ツアー客の一人は、こんなことを添乗員に話していた。たしかに、観光的側面でみればつまらないのかもしれない。しかし、東日本大震災という未曾有の大災害の歴史の中で、この一本松が私たちに与えてくれた力は強大だ。押し寄せる津波の中でどのようにして耐え、その後衰えていった経過を考えれば、つまらないという言葉は出ないはずだと思う。

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 陸前高田で私は少年少女の野球チームの試合を見た。ヤンキースの黒田投手がグローブをこの子どもたちにプレゼントしており、子どもたちの表情は輝いていた。震災から2年3カ月が過ぎ、野球をやっているこどもたちには屈託がない。このグランドは海からの水であふれ、住宅が何軒も流された場所なのだ。その土地を地元の人たちが整備し、子どもたちのスポーツの場所として再生したのだという。

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 この子たち未来は平たんではないだろう。それでも粘り強く生きてほしいと思う。奇跡の一本松を見れば、この子どもたちは強いと確信する。日本を支える大きな存在に成長し、この中から第二の長嶋、松井が出現してほしいと願いながら、懸命にプレーする少年少女たちの応援を続けた。

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 写真 1、クローバーの後ろに見える奇跡の一本松 2、気仙沼の陸に打ち上げられた漁船(解体が決まったという) 3、一本松の前には慰霊の花が飾られていた 4、気仙沼港近くのビル。ここまで水位があったというライン 5、明るい雰囲気の気仙沼駅