小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

689 再読「五十年目の日章旗」、そしてドラマ「歸國」

画像 浅田次郎の「終わらざる夏」を読んでいる。上下二冊の長編だ。その間に青森に行く必要があり、浅田の本を家に置いて中野孝次の文庫本「五十年目の日章旗」を旅行鞄に入れた。

  それなのにたまたまホテルのテレビでNHKBSを見ていたら、読書番組に浅田が出演しているではないか。つい、自分の本について語る浅田の話を最後まで聞いてしまった。

  浅田は言う。私の世代は戦争を全く知らない、そして一番苦労を知らないで生きてきた。戦争で亡くなった人たちを数字でとらえてはならない。普通の人たち(市井の人たち)が戦争にどのようにひきずられて行ったのか、戦争の実相を小説家として書きたかった。

 さらに、こうも語った。この作品を書きながら「怖くてしようがなかった。戦争を体験した人が読むと思うと怖かったのです。亡くなった人のことを簡単に書いていいのか、非難されるかもしれないと圧迫感につきまとわれていた。しかし、戦争全体を俯瞰することは、戦争を知らない世代にしか書けないと思った。戦争を体験している人が生きている時代に書くのは、日本の小説家の責任であり使命だ―。こんな話である。流行作家がこうした思いで書いているのだから、この小説は多くの人に読まれるだろうと想像している。

 「終わらざる夏」については、後日記すとして、今回は「五十年目の日章旗」についてである。中野の兄は、太平洋戦争の「インパール作戦」で亡くなった。この作戦は、牟田口廉也という司令官によって立案され、実行に移された無謀、愚劣な作戦といわれた。

  ビルマミャンマー)から高度3000メートル級の山を越えて、インドのインパールに進攻して、イギリス軍をたたくという作戦だ。しかし補給を無視した無謀な作戦によって日本軍の8万6千人のうち戦死者は3万2千人余り(そのほとんどが餓死)、戦病死者は4万人以上に達した。

  これだけ多くの戦死者を出しながら、牟田口は陸軍予科士官学校長(2度目)になる。戦後は戦犯に問われることもなく、作戦の失敗は部下の無能のせいだと言い続け、死んだ兵士たちに対する謝罪の言葉を聞くことはなかった。「悪いことをしたのは秘書で、私は知らない」と責任を回避する現代の政治家たちと共通する「無責任軍人」の典型である。

  作品は、中野の兄と同名の名前が記された日章旗の持ち主を探しているという新聞記事が発端となり、中野が兄の短い生涯を振り返り、インパール作戦の愚劣さを徹底的に糾弾する。筆致こそは静かである。しかし、無謀な戦争を続けた軍幹部への怒りは激しい。それは以下の文章からも伝わる。

 「なぜ、自分がこんな祖国から何千里もはなれたビルマの山中なんかで死なねばならぬのか、・・・彼らはその不条理な運命に納得できないまま、ただ自らの死という絶対的事実につき当たって、まさに万斛の恨みを抱いて死んでいったのであろう。その彼らの胸中を思うと、戦後五十年たってもわたしははらわたのにえかえるような思いに駆られるのである」

  中野の本を読み終え、帰宅した夜、倉本聰が脚本を書いた「歸國」(きこく)というTBSのドラマのビデオを見た。ストーリーは、深夜、東京駅にダイヤにはない一台の軍用列車が60余年前に南海で散った英霊たちを乗せてやってくる。彼らは平和になった日本の現状を南海の海に眠っている戦死者たちに伝えようと夜明けまでのわずかな時間に、ゆかりの深い場所に向かう。

 「日本は豊かになった。でも…」に代表されるように、英霊たちの現代日本に対する評価は厳しい。甥の生き方に怒った兵隊(北野武)は、甥を殺してしまう。倉本聰の北海道を舞台にした作品は、掛け値なしに面白い。だが、「歸國」は、期待外れだった。現代日本に対する評価は類型的で、新鮮さに欠けていた。倉本聰の世界は、やはり北海道の自然とともに生きる人たちの姿を追うことなのだ。

  戦後65年という長い年月が過ぎた。しかし、「万斛の恨みを抱いて」死んでいった人たちがいることを決して忘れてはならないと思う。テレビの画面を見ながら、中野の怒りを思い出した。このドラマの兵隊たちも、同じような強い恨みを持っていたのである。