小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

2041 2000キロの白骨街道逃避行 丸山豊『月白の道』

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 不明して、最近まで私は丸山豊(1915~1989)という人を知らなかった。医師・詩人で、戦争散文集という副題が付いた『月白(つきしろ)の道』(中公文庫)の作者である。これまで大岡昇平の『レイテ戦記』や江崎誠致の『ルソンの谷間』、伊藤桂一蛍の河』など、太平洋戦争に従軍した兵士たちを描いた名作を読んではいる。そして、丸山のこの本は、この3冊に劣らない戦記文学といえる。泥寧の道を2000キロも苦難の敗走をした記録は、私たち戦争を知らない世代に戦争のむごたらさ、無残さを訴えているのだ。

 福岡県で生まれた丸山は、九州医学専門学校(現・久留米大学医学部)を卒業後、陸軍の軍医として中国・フィリピン・ビルマ(現在のミャンマー)を転戦した。この本は、1944年5月、ビルマ北部のイラワジ河近くのミートキーナに陣を敷いた第18師団(菊)が中英米の連合軍に包囲されたため、中国雲南省に駐屯していた第56師団(龍)の歩兵団の一部200人が救援に向かい、その後どのような運命をたどったかを行動を共にした軍医の目で描いている。

 本来なら、歩兵団は約9000人。しかし、56師団の歩兵団長、水上源蔵少将(山梨県一宮町出身)には、上記の200人しか与えられなかった。だから、間もなく悲劇がやってきた。7月初めには連合軍の攻勢でミートキーナの日本軍は戦死が相次ぎ1600人まで激減してしまった。それでもビルマ方面軍辻政信参謀は水上兵団長に死んでも撤退をしてはならない、という「死守命令」を出す。

 これに水上は反抗(抗命)し8月1日全軍に撤退を命令、同3日、イラワジ河中洲で銃を使って自決した。丸山らは遺骨の代りに軍刀で切り落とした水上の左手首を持って、山岳地帯を逃避行する。雲南からビルマ、そしてこの後のタイ・チェンマイまでの2000キロの長い道のり。それを丸山は散文集として描き、西日本新聞(本社福岡市)で連載した。

  傷つきしもの夏草に果てさする
  梅雨川の岸の煙草に末期の火
  大夏野わが死にかざる一花なし

 (以上、この本で紹介されたミートキーナで戦った八並豊秋さんの痛哭句)

  丸山はこの本で、ビルマからタイへと続く泥濘の道を白骨街道と唱えたと書いている。インパール作戦でも白骨街道が出現したことはよく知られているが、丸山らが逃避行する道の両側にも、日本軍のおびただしい兵士たちが野ざらしになり、白骨化していたのだ。丸山はこの本の復刊の序の中で「戦場には、ついに最後までその真相がわからずじまいという問題が多い。生きのこった私たちが、表現しても表現しても、沈黙の空間は海のように深く暗い。永遠の秘密として、歴史のひだにたたみこまれてしまうだろう」と書いている。

 だが、この本を読むと、真相は不明でも戦争の理不尽さはよく理解できる。その理不尽な戦争で私の父も命を奪われた。

      (この本については、拙ブログ2037回でも一部触れています)