小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1994 鎮魂の季節は4月 比島に消えた父

                       
                        
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 鎮魂の季節といえば、8月だ。だが、私にとっての鎮魂の季節は4月なのである。それはなぜか。76年前の4月、日本から海を隔てて約3000キロのフィリピンでは、私の父を含む日本軍の兵士、民間人らおびただしい人々(50万人以上といわれる)が米軍との戦闘によって生への希望を奪われたからである。父は今月7日(1910年)に生まれ、24日が命日だった。だが、実際にはこの世を去った日はいつなのか、分からない。生きていれば語るべきことが多かったはずだと思う。

 父が出征した当時(34歳)、私は母のお腹の中にいた。私が生れて2カ月後、父は戦死したから、私は写真でしか父のことは知らない。1枚のモノクロ写真が残っている。父が出征する際に写した家族写真だ。父と母、祖母、きょうだい4人(3人の姉と兄)がいる。小さな兄が真ん中にいて父(向かって右)と母(同左)はそれぞれ兄の手を握っている。別れを意識しているのか、だれもがぎこちない顔をしている。父はこれが最後の写真になると思っていたのだろうか、何かを覚悟したような顔に見える。

 最近、フィリピンでの日本軍と米軍の戦いをテーマにした本を読み直している。高木俊朗『ルソン戦記』(文藝春秋)、半藤一利レイテ沖海戦』(PHP)、大岡昇平『レイテ戦記』(中公文庫)、江崎誠致『ルソンの谷間』(光人社)などだ。これらの本には私の父が戦死したクラーク地区での戦闘については詳しく描かれていない。ただ私の手元にはこの地区で戦闘を指揮し、数少ない生存者として日本に引き揚げた、元大尉による報告書『比島クラーク地区部隊戦闘状況』がある。厚生省(現在の厚生労働省)の倉庫に保管されていた報告書をを担当者が見つけ、コピーしてくれたものだ。

 私はこの報告書をこれまで何回も読んでいる。首都マニラ近郊のクラークには当時7つの飛行場があった。1945年4月、米軍のフィリピンへの反攻によってこれらの飛行場はすべてが失われ、生き残った兵士たちは「斬り込み作戦」という捨て身の戦いを繰り返した。これより前の44年10月のレイテ沖海戦では、戦闘機による特攻作戦(米軍の戦艦に日本の戦闘機が体当たりして、自身を犠牲にして米軍の艦船に打撃を与えようとする、大西中将が立案した外道の作戦)も実施され、ここでも若い兵士たちが短い生を断ち切られた。

 クラーク地区の戦いは、米軍の圧倒的戦力の前に日本軍はほとんどの将兵が戦死し、生き残った兵士はルソンの山岳部へと逃避行を続けた。米軍の攻撃とフィリピン人によって組織された抗日ゲリラが敗残兵を容赦なく襲い、生き延びるのは容易ではなかった。私の父は24日に戦死したことになっている。しかし、いつ戦死したかが判明しない兵士を一括してこの日にしたといわれ、多くの人がこの日戦死したと家族に知らされた。
 
 戦争は避けなければならない。政治家を含め、戦争の惨禍を知る世代は少なくなった。『比島クラーク地区部隊戦闘状況』には「包囲せん滅」や「全滅」「惨憺たる戦い」「斬り込み」「ゲリラ」という言葉がある。これが太平洋戦争の実態だった。

(76年前の3月26日、慶良間諸島に侵攻した米軍は、4月1日、沖縄本島に上陸。沖縄戦によって日米両軍と民間人計20万人が亡くなり、沖縄の人々は4人に1人が犠牲になったといわれる)