小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1583 ガダルカナル・インパールを生き抜く 元兵士の手記

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  72回目の終戦の日である。太平洋戦争で310万といわれる日本人が死亡し、中国(1000万人)をはじめアジア各国で2000万人以上が犠牲になったといわれる。天皇陛下戦没者追悼式で「ここに過去を顧み、深い反省とともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対して、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります」と述べた。

 一方安倍首相は、不戦の決意を述べたものの、アジア諸国への加害責任と反省については口にしなかった。太平洋戦争で、日本軍の愚かな戦いの象徴といわれるのが「ガダルカナル戦」と「インパール作戦」だ。両方の作戦に投入され、かろうじて生き延びた人の手記を読んだ。  

 福島県棚倉町の元教師、衣山武秀さんがまとめた戦争体験者の記録集『神様は海の向こうにいた 平和を願って戦争体験を語る』(自費出版、初版2006年5月、再版2010年10月)は、衣山さんを含め10人の戦争体験がつづられている。このうち原亀寿さんは「ガダルカナルからインパールへ」と題して、過酷な体験を書いた。以下はその概要である。  

 ▼ガダルカナルへ  

 1936(昭和11)年、20歳になった原さんは徴兵検査を受け、翌37年、召集され、会津若松の若松連隊に衛生兵として入隊した。2年間教育を受けたあと1939年、日中戦争の負傷者を治療する中国の野戦病院に派遣された。1941年満期除隊後、郷里(福島県高野村=現在の棚倉町)に戻り結婚し農業に従事した。しかし、1年後再び召集され、仙台の陸軍病院に入隊。1カ月後、3日間の休暇を与えられ、家族と過ごし1942(昭和17)年5月、広島・宇品から輸送船でシンガポールに向かった。合流予定の本隊がビルマ(現在のミャンマー)・ラングーン(同ヤンゴン)に移動していたためシンガポールからラングーンに行くと、本隊はさらにラバウル(パプニューギニア・ニューブリテン島)に移動していた。原さんらを乗せた輸送船が各地を回ってラバウルに着いたのは9月になっていた。  

 このころ、日本軍はガダルカナル島(現在のソロモン諸島国)に造成した飛行場を米軍に奪われたため奪還する意図をもって軍隊を送ったが、米軍に太刀打ちできずに全滅する。そこでラバウルに待機していた原さんの部隊がガダルカナルへの移動を命令されたのだ。  

 1942年11月12日夕、11隻の輸送船及び31隻の艦船がガダルカナルへと向かった。しかし、多くの輸送船が米軍の攻撃で沈没。原さんの乗った船は何とか島にたどりついた。ダルカナルは東西に150キロ、南北に48キロの島で、2400メートル級の山もあり、当時島はほとんどがジャングルに覆われていた。米軍の攻撃は激しく、原さんら日本軍兵士は日中、猛暑の中「蛸壺」といわれる穴を掘ってその中に隠れた。身動きできず、食事もできないまま犠牲者は増えていった。そして食糧が底をつく。潜水艦で食糧を運んでくれたことがあったが、それも焼け石に水で、兵士たちは食べ物がなくなると、ジャングルの木の葉、ツタなど食べられそうなものを海水で煮て食べ、小川の石のコケまで食べ尽くした。体長1メートルほどのトカゲもいたが、動きがすばやいため捕まえることはできなかった。  

 兵士たちのほとんどが下痢の症状となり、体が衰弱して腹が膨らみ、次々に死んでいった。頭がおかしくなって、ふんどし姿になり海に飛び込む者もいた。ギンバエの大群が死体に群がり、死臭が漂っていた。衛生兵といっても、原さんは薬も包帯もなく、次々に倒れる兵士たちに手当をしてやることはできなかった。それは「生き地獄の日々だった」という。  

 1943年2月になって駆逐艦が生存者を運ぶために派遣された。夜間島へやってきた小型の船で駆逐艦に乗り移ることができたのは体力のある人たちで、それ以外の病人は島に取り残され、餓死する運命が待っていた。原さんは、必死で駆逐艦への網はしごをよじ登り、「餓島」といわれた島から同じソロモン諸島の「サボ島」に移された。この島では砂糖水が出された。しかし、これを飲みすぎて、死んだ人もいた。体が衰弱した人には、甘い水も毒だったのである。  

 ▼インパールへ  

 生還した原さんはラバウルからマニラ、パラオへと移動、そしてビルマへと送られ、インパール作戦に投入される。「ガ島の悲惨な状況を秘密にするため再び激戦地に送られることになった」という。  

 南太平洋の戦いで米軍に負け続けた日本軍は陸上の戦いで挽回しようと考えビルマから高度3000メートル級のアラカン山脈を越えて300キロのインド・インパールに進攻して英軍をたたくという戦法を企てる。目的は①インドから中国へつながる援蔣ルート(対日戦争を続ける中国国民政府・蔣介石政権への米英からの物資支援)の遮断。②対印施策(インド独立派のスバス・チャンドラ・ボースらを支援して、インドをイギリスの植民地から「解放」させる方策)の実現――の2つといわれ、牟田口廉也という司令官によって立案され、緬甸方面軍(ビルマほうめんぐん)の河辺正三司令官は、牟田口とは盧溝橋事件当時も部下と上司の関係であり、インパール作戦についても「かねてより牟田口が熱意を持って推進してきた作戦なのでぜひやらせてやりたい」と作戦を認可した経緯があり、無謀、愚劣な作戦だった。実際に補給も無視した作戦で約9万人(連合軍は15万人)が投入され、甚大な犠牲者が出た。  

 原さんが所属した部隊は独立部隊として輸送を担当した。しかし、運ぶはずの武器弾薬、食糧はほとんどなく、途中で雨季に入りずぶぬれの中で進軍しなければならなかった。休む場所もなく、食糧がないから餓死者が続出し、道には死体が転がり、いつしか日本軍がたどる道は「白骨街道」あるいは「靖国街道」といわれるようになる。原さんをはじめ、この作戦に投入されたのは福島県宮城県など東北地方出身者が多かった。

 ガダルカナルで生死の境をさまよった原さんは、既にこの戦争は勝ち目がないことを理解していた。せっかくガダルカナルで生き残ったのに、ここで死んでなるものかと思った。そこで仲間5人と話し合い、部隊の進行方向とは逆に向かって逃亡し、現地の人たちと衣服や食べ物を物々交換しならが生き延びる。日中は隠れていて夜に移動したが、そうした中で結局後方の部隊に合流した。部隊は英軍と戦い、原さんは英軍の迫撃砲の破片が腰に当たって負傷、バンコク陸軍病院に入院した。ここで日本の敗戦を知った。戦後英軍の捕虜となり、帰国したのは1946(昭和21)年7月のことである。娘は5歳になっていた。  

 ▼引き継がれた悪しき生き方  

 原さんが生き延びたのは、運命としか言いようがない。迫撃砲の破片が当たらなかったら、生還することができなかったかもしれない。ガダルカナルでは3万3600人の日本兵が上陸し、うち約8200人が戦死、約1万1000人が戦病死(餓死やマラリア、下痢などによる病死)し、島から脱出できたのは約1万人しかいなかった。また、インパール作戦には約9万人が投入され、生き残ったのは3万1000人のみだった。こうした2度にわたる極限状況で生き延びた原さんは、強運だったのだろうか。  

 2つの作戦の戦死者は病気(マラリア)、栄養失調、餓死がほとんどといわれる。以前のブログにも書いたが、インパール作戦を実行した牟田口廉也という司令官は戦犯に問われることもなく、作戦の失敗を部下のせいにし、戦死者に対する謝罪もしなかった。その悪しき生き方は、嘘と不誠実な行動をとり続ける政治家や官僚に引き継がれたといっていい。  

 ガダルカナルの戦いを書いた作家の五味川純平(『ガダルカナル文藝春秋)や半藤一利(『遠い島ガダルカナル』PHP)は、本の中で日本人は失敗から何も学ばず、同じ失敗を際限なく繰り返し続けていることを指摘した。半藤はさらに「日本人の独善性と硬直性と無反省と、情報無視はいまに通じている」とも書いている。

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