小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

579 丘を目指して 富士への思い

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 1月も中旬に入った。朝6時過ぎに、身支度を整えて犬の散歩に出る。日の出前で薄暗いが、次第に東の空が明るくなってくる。天気予報は快晴。空の雲はたしかに少ない。冬の晴れた日には遠くに富士山が見える丘へと歩を進める。空気が澄んでいる。「けさは富士山が見えるはずだ」と思う。

 丘に到達し、西の空を見る。その方向も含めて360度、どこを向いても遠くはスモッグが立ち込めている。そのために富士山は見えない。この冬はなぜかそんな日が多い。首都圏の空はきれいになったはずなのに、どうもそうではないようだ。

  日本人は、富士山への思いが強い。先月も九州から帰りの飛行機の中で、客室乗務員が「左側の窓から雪を抱いた富士山をご覧になることができます」と機内放送をしていた。窓側に座った乗客は一斉に目を外に向け、感嘆の声を上げる人もいる。やはり、富士山は人を惹きつける何かがあるのだ。

  機内放送を聞いて、亡くなったある知人のことを思い出した。

  久保田緑さんという女医だ。明治生まれの緑さんは、東京女子医専(現在の東京女子医大)在学中に、中国からの留学生と結婚。医専卒業後、夫とともに旧満州中国東北部)の奉天(現在の瀋陽)に渡る。

  その後、日本軍部によって満州国が建国になり、さらに日中戦争旧ソ連の参戦と激動の時代が過ぎる。彼女はその後も中国に残り、日本に引き揚げたのは、日中国交回復後のことだ。

  埼玉県の豪農の家に生まれた緑さんは、引き揚げ前の数年前に、他の中国残留婦人とともに50年ぶりに一時帰国をする。北京からの飛行機は、羽田に向かった。(成田は開港前だった)日本上空に入って、しばらくすると「いま富士山が見えます」という機内放送があり、富士山を見た婦人たちは慟哭した。

  緑さんもその一人で「涙で富士山を見る目が曇ってしまったわ」と話してくれた。富士山は日本の象徴であり、長い間日本を離れて暮らした婦人たちに、故郷に帰ってきたという実感が湧いたのだろう。

  一時帰国後、再び中国に戻った緑さんはその後、中国の暮らしにけりをつけて永住帰国し、医師として働きながら、中国残留孤児といわれる人たちの支援活動も続けた。緑さんが亡くなってもう20年以上が経過する。(写真は元日に見た富士山)