小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1692 先人たちの思いは 東京医大の入試女子差別

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 日本の女医第1号は、荻野吟子である。そして、日本初の東京女子医学校(現在の東京女子医大)を創設し、女子の医学教育に尽くしたのが吉岡彌生だった。吉岡を尊敬し医師になり、医療活動の生涯を送ったある女性から何回かにわたり話を聞いたことがある。この3人だけでなく、かつて医師を目指した女性たちは差別との闘いを強いられた。東京医大の入試で、女子の合格者を3割以下に抑えるため女子受験者の点数が一律に減点されていたという。いまもって、この分野でも女子への差別が依然残っていることに複雑な思いを抱いた。  

 荻野吟子は1851(嘉永4)年4月、埼玉県の村長の5女として生まれ、女子師範学校を卒業したが、教師にならずに16歳で結婚した。しかし品行の悪い夫から性病をうつされ、婚家から離縁になった。実家に戻ってからもこの病気の治療に苦労しなければならなかった。このつらい経験から吟子は女医の必要性を自覚、医学を学んだ。明治18年、4人の女性とともに医業開業試験を受け、合格したのは35歳の吟子のみだった。東京で開業医や女学校の校医の生活を続けたあとキリスト教の洗礼を受け、再婚した夫とともに北海道に渡り、医療活動と伝道の生活を送る。吟子の62年の苦難の生涯は、渡辺淳一の小説『花埋み』(新潮文庫)で紹介されている。  

 荻野吟子が生まれて20年後の1871(明治4)年4月、静岡県の医家に生まれた吉岡彌生は22歳で医師になり、女子の医学教育と地位向上のために日本で初めての女医養成機関東京女医学校を1900(明治33)年に創設した。女医学校は1912(明治45)年に東京女子医学専門学校(東京女子医専)に昇格、戦後東京女子医大となる。彌生が女医学校を創設したのは、自分が学んだ明治時代有数の医師養成機関で、荻野吟子も学んだ私立医学校・済生学舎が明治33年に女子を入学させないと決めたことに発奮したことが理由といわれている。  

 彌生に憧れ、医師を目指した女性は少なくなかった。私がかつて知り合った久保田緑さんもその一人だった。1906(明治39)年5月、埼玉県で生まれた久保田さんは熊谷高女を卒業したあと、東京女子医専を受験して合格、1930(昭和5)年に卒業した。学生時代に知り合った中国からの留学生と結婚し、卒業後夫とともに旧満州中国東北部)に渡った。この後、長く中国に残って医療活動を続け、旧ソ連による侵攻、新中国の誕生、文化大革命等々を経験するという波乱の歳月を送った。久保田さんが日本に帰国したのは1980(昭和55)年、74歳の時のことである。帰国後も亡くなるまでの数年間、生涯現役の医師として働いた。生涯、医師としての矜持をもって行動し、中国残留孤児など社会的弱者に温かな眼差しを向けた続けた人だった。(拙著『コスモスの詩』みずち書房より)  

 3人3様だが、いずれも男性優位の社会で厳しい生涯を送ったことは言うまでもない。そして、東京医大の女子入試差別について「まだそんなことをやっているのか」とあきれるかもしれない。東京医大文科省の高官の息子を裏口入学させたといわれる。もし、娘だったらどうしたのだろう。これ(入試差別)とあれ(裏口入学)は別ということか……。

 荻野吟子の命とありぬ冬の利根 金子兜太