小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

293 誘拐捜査 歳月を経て浮かんだ事の深層

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 日本のノンフィクションで、一連の沢木耕太郎の作品は嫌いではない。「深夜特急」は多くの若者に旅の醍醐味を教えた。沢木に比べると地味なのだが、本田靖春の「事件」を題材にした作品は社会部記者の原点を見るようで、いつも姿勢をただして読んだ。

 彼の作品では昭和史に残る誘拐事件の「吉展ちゃん事件」を書いた「誘拐」が一番印象に残る。その「吉展ちゃん事件」の取材メモをもとにして、当時担当した元東京新聞記者が「誘拐捜査」(集英社、中郡英男著)という本を出した。

「吉展ちゃん事件」は、ここで詳しく書く必要がないくらい、事件史の中では有名だ。1963年3月31日、公園で遊んでいた5歳の吉展ちゃんが誘拐され、身代金50万円が奪われた。早くから元時計職人、小原保が捜査線上に浮かび、何度も調べるが、捜査の詰めの甘さから捜査は暗礁に乗り上げる。

 切り札として登場したのが有名刑事、平塚八兵衛部長刑事だ。平塚は、小原のアリバイを徹底的に調べ、ついには自供に追い込み、遺体も発見される。事件が発生して2年3カ月が経過していた。 中郡が45年前の風化した事件をなぜいまごろになって書いたのか。

 本田靖春の「誘拐」でも平塚八兵衛刑事が事件を解決したと書き、平塚が警視庁を退職した当時、多くの新聞が聞き書きなどで平塚を「伝説の名刑事」として取り上げ、吉展ちゃん事件も平塚が「信念を貫き通し、上司や部内の反対を押し切って迷宮入り寸前に解決したとの見方が定説となった」(誘拐捜査のあとがき)という。

 中郡は「事の真相はある程度の歳月を経ないとみえてこないものである」とし、事件解決は「平塚の一人手柄」という見方に疑問を投げかけ、「警察内部の反目と抗争、旧来の捜査手法と近代合理捜査との葛藤、紆余曲折の時間経過と偶然などが複雑に重なりあった末の決着」と書いている。

「誘拐捜査」は、警察内部や記者の動きを本田以上に詳しく書いている。この事件の取材を担当した記者としての思いがこの本からは伝わってくる。 この事件後の1968年12月10日、東京・府中で三億円強奪事件が起きた。平塚はこの事件でも主導的役割を演じるが、一人の青年を誤認逮捕するという話題を提供しただけで、事件は迷宮入りとなる。

 平塚は75年3月に警視庁を退職し、三億円事件はこの年の12月10日に時効となった。(事件を取材していた私は)府中署で捜査本部の解散を告げる警視庁の刑事部長が涙声だったことがいまも忘れることはできない。この事件の真相はいまも闇の中だ。