小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

292 御巣鷹の夏 23年前の「クライマーズハイ」

急に暑くなった。7月なのだから当然なのかもしれない。この暑さの中を歩いていると、23年前の夏を思い出す。日航ジャンボ機墜落事故のことだ。

この日、会社の同僚夫妻と私の家族は群馬県の保養地にいた。同僚は留学時代の友人というアメリカ人の美しい女性とその連れ合いの男性を伴っていた。

乾いた空気の中で、午前、午後とテニスを楽しんだ。みんな下手で、交代でダブルスをする大人たちに混じって、私の2人の娘はあきれたように玉拾いにチョコチョコと走り回っていた。その夕方、歴史に残る日航機墜落事故が起きた。1985年8月12日のことだった。

風呂に入り、おいしい食事を終え、ビールを手にNHKテレビのニュースを見た。そのトップに日航ジャンボ機が姿を消したというショッキングなニュースをやっていた。

それが昭和史に残る乗員乗客520人が亡くなった群馬・御巣鷹山への日航機の墜落事故のスタートだった。そのまま群馬に残っていれば、たぶんに現場に一番早くたどり着き、凄惨な状況を取材することになったはずだ。しかし、そうはならなかった。

電話をすると、私の直属の上司はすぐに東京本社に戻れというのである。電話の段階では、日航機は墜落したのは間違いがないが、その場所は定かではない。仕方なく私は東京に戻った。以来、不眠不休でこの未曾有の大事故の報道に当たることになる。

長々と、前置きを書いた。小説で、あるいはテレビドラマで評判を呼んだ「クライマーズハイ」の映画を見た。群馬県の地方紙の記者たちが、この大事故をどのような形で報道したか。その1週間を追った映画は迫力があった。つい23年前の私を思い出した。

映画は、取材陣も少なく、当時の現場には必須の機材(モトローラ)もない地元紙の記者たちの孤軍奮闘の物語だ。節目の報道で悔いが残る地元紙の記者たちの姿は、これまで付き合った多くの記者の姿と二重写しになる。

この重大事故で、私たちはこの地方紙の記者以上に悔いが残る経験をした。ここでは詳しくは書かないが、「決断力」を失ったリーダーによって、大きな過ちを犯したのだった。

その夏、私は頭を丸刈りにした。520人もの犠牲者を出した事故で、私たちの過ちは許されないと思ったからだ。だれかがその責任を取らなければならない。丸刈りは高校生時代以来だった。頭の格好が悪く、決心するにはけっこう時間を要した。床屋に行き、丸刈りを頼み、終わって外へ出ると、頭だけが涼しく感じた。それから次第に髪は伸びたが、私の頭髪は白髪が急に増えた。