小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1762 無頼の人がまた消えた 頑固記者の時代は遠く

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 私がこの人に初めて会ったのは、ホテルオークラと米国大使館側の裏玄関からエレベーターに乗った時だった。共同通信社はかつて虎ノ門にあった(現在は汐留)。7月。この人は白系統のサマースーツ姿で、まぶしいばかりだった。東京の人は気障だなと思った。名前は知らないが、少し崩れた雰囲気から社会部の人だと直感し、あいさつした。「今度仙台から転勤してきました石井です」と。正解だった。すると、この人は「君が石井君か。警視庁担当の板垣だ、よろしく」と、低音だが、よく響く声で返してくれた。それが無頼記者、板垣恭介さんとの出会いだった。その板垣さんが3月13日に亡くなった。86歳だった。  

 板垣さんは根っからの事件記者だが、皇室も担当した。板垣さんの著書『無頼記者』『続無頼記者』(以上、マルジュ社)、『明仁さん、美智子さん、皇族をやめませんか  元宮内庁記者から愛をこめて」(大月書店)を読むと、その反骨ぶりが浮き彫りになる。反骨とはいえ、取材対象から愛された記者だった。宮内庁担当時代、記者会見の際に美智子皇后(当時は皇太子妃)にたばこの火をつけてもらったこともあるといい、週刊誌にも載った。  

 無頼記者を気取ってはいたが、実は生真面目であり、神経はこまやかだった。犯罪史に残る「3億円事件」が時効を迎えた1975(昭和50)年、私はこの取材班の一員となり、東京三多摩地方の隅々を取材した。当時板垣さんは警視庁担当キャップだった。取材内容を連載記事にまとめるにあたって、もう一人の社会部デスク(板垣さんとウマが合った菊池さん)と2人、延々と議論を続けるのだ。その合間に、取材内容を細かく聞く。気の遠くなるような時間だった。出来上がった原稿は完璧だった。  

 板垣さんは『無頼記者』の冒頭「戦闘的記者の出現を!」で以下のように書いている。 「共同通信に入り『あらゆる権力に対して、確執(自分の考えを譲らないこと)を醸し出す精神を常に持続するのが記者の仕事だ』と、ひそかに決意した。それは、かつてマスコミを含めた言論人が戦争に反対できなかった、あるいは疑義を提示できなかったのは、『流れに逆らう、ゆずらぬ価値の一線を持った戦闘的な記者』が、ほとんど居なかったという認識でもあった」  

 板垣さんの活動を見ていると、この思いを持続したと言っていい。時を経て、いま官房長官の記者会見で話題なっている東京新聞の望月伊塑子記者は戦闘的記者の1人であるだろう。「たった1人の反乱でもいい。やれ!やれ!」と、板垣さんは望月記者にエールを送っていたに違いない。 「『無頼』とは、正業につかず、無法な行為をするもの、と辞書にある。しかし、『何か力あるものに頼ることなく、独り生きてゆく』という意味もある。人間は本来、清々しく孤独なものだ。『単独無頼の独人となりて』の覚悟なくしてナニがジャーナリストだ」(『無頼記者』)  

 板垣さんと同じ時代、読売新聞社会部記者だった本田靖晴もまた頑固な記者生活を送り、フリーのジャーナリストとして社会性の高いノンフィクション作品を残した。頑固記者の時代は遠くなった。(板垣さんは1933年1月、本田は同年3月に生まれた。この年の2月、国際連盟が対日満州撤退勧告案を可決し、日本は国際連盟を脱退した。この後、日本は日中戦争と太平洋戦争の泥沼へと入り込む)  板垣さんのご冥福を祈ります。  

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