小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

71 父が眠る島 フィリピンで思ったこと(1)

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 私事に触れる。父親の顔は写真でしか知らない。母が父代わりもしてくれて、育ててくれたことは当然である。そのためか、父を持たない寂しさやつらさを感じないままに幼少期、少年時代を送り、いつしか故郷を離れて父のことを考えることがないままに長い年月を過ごした。

 父を知る姉たちからは、その思い出話を何度か聞いた。新しいものが好きで、当時(昭和10年代)として、田舎にはどこにもなかった蓄音機を買ったこと、いつも優しくて決して子供たち(姉たち)を叱ったことはなかったことなど、その話を聞いてうらやましく思ったものの父親の存在については、実感はなかった。

 何より母は私に父のことは何も話さなかった。父親の顔を知らない私を気遣ったためなのかもしれない。 前置きが長くなった。私の父は太平洋戦争が末期に近付いた昭和20年(1945年)3月、フィリピンで戦死した。戦後届いた公報には「比島、クラーク地区で戦死」とあったそうだ。詳しい状況はだれも知らせてはくれなかった。遺骨もなかった。

 以前のブログで紹介した姉の文章のように、家族の悲しみ、嘆きは深かった。父の死の直前の1945年2月に生まれた私は、そんな家族の実情は知らずに育っていく。 それから時が流れ、私は父が死んだと同じ年齢になった時、冷静に父の戦死の状況を調べようと思った。

 厚生省(現在の厚生労働省)援護局の倉庫には、膨大な太平洋戦争の資料が眠っている。その資料の中から、係官の協力で父の部隊の戦闘を記す報告書が見つかった。報告書には克明に父が所属した部隊が米軍と死闘を繰り広げ、いかに全滅状態になったかを記していた。

 家族はそれまで、海軍に所属していた父がフィリピンの近くで米軍の攻撃によって沈没した軍艦に乗っていたものと信じていた。だが、報告書は違っていた。当時、日本は敗色が濃厚になっており、クラーク地区に上陸を試みた父の所属した海軍の一部はマッカサーの米軍と激しい戦闘を繰り広げる。

 報告書によると、米軍は先頭集団に黒人兵を配置した。日本軍と交戦中に背後から砲撃を加え、黒人兵もろとも日本軍をせん滅したという。ベトナム戦争でも使い、米国議会でも問題になった戦法だ。この戦いで、父の所属する部隊は全滅状態なった。一部生き残った元兵士が帰還後、この報告書を書いたのである。この報告書を読んで、私は父の無念の死を知った。フィリピンで眠る父を思った。

 先月、マニラでの会議に出席するためフィリピンの土を初めて踏んだ。父が死んだクラークには行くことができなかったが、同じフィリピンの空から、父の眠る方角の空を見つめることができた。そこは「アンヘレス」と呼ばれる地域である。戦後米軍基地になっていたが、ピナツボ火山の噴火で米軍が基地を放棄し、現在はフィリピンの経済特区としてにぎわいを見せる町に変貌したという。(続く)