小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

2053 散歩道に秋の香り「木犀の匂の中ですれ違ふ」

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 金木星の花が咲き出した。小さな橙色の花はあまり見えない。しかし、あの独特の香りで季節の花の開花を知った。備忘録によると今から6年前の2015年は9月23日に「金木犀開花。例年よりかなり早い」とあるから、今年は夏から秋への移ろいというバトンタッチはさらに早くなっているようだ。味覚・嗅覚障害が伴うこともあるというコロナ禍。秋の便りを感覚で味わうことができない人も少なくないことに気が滅入る。

「五官を極度に洗練することによつて人はさまざまの奇蹟を見ることができるやうに成る」

「五感およびその上に建てられたる第六感以外に人間の安心して信頼すべきものは一つもない」

「詩とは五官及び感情の上に立つ空間の科學である」

 詩人の萩原朔太郎は 『散文詩・詩的散文』の中の「言はなければならない事(「萩原朔太郎全集 第3卷」筑摩書房)で五感に触れている。五感は、ここで書くまでもなく視覚(見る)、聴覚(聴く)、味覚(味わう)、嗅覚(嗅ぐ)、触覚(皮膚で感じる)のことである。詩人としての感性は、五感を磨くことが重要なのだ。文章を書くうえでも、そうだ。

「調香師」という耳慣れない仕事がある。数千種類の香料を組み合わせて新しい香りを作る専門職だという。食品の香料(フレーバー)をつくる「フレーバリスト」、化粧品など食品以外の香り(フレグランス)をつくる「パヒューマー」の2つに分かれ、関連の会社にはこれらの人たちが働いている。これとは全く異なる分野で嗅覚を磨いている人たちもいる。

 それは政治家ではないか。政治家程嗅覚が発達した人間は、そうはいないと私は思うのだ。今月中に行われる自民党総裁選。名乗りを上げている政治家は、みんな嗅覚が鋭い。ただ、前言を翻すことなど何でもありの候補者たちを見ていると、永田町を漂う妖怪たちの腐臭だけは感じないのかもしれないと思う。

 朝、散歩コースの遊歩道を歩いていると、金木犀の香りがしてきた。金木犀の花の香りに関する常套語として「馥郁(ふくいく)たる香り」(よい香りのただようさま)という言葉があるが、具体的にどんな香りか、表現はなかなか難しい(下段の関連ブログ「708 不思議なキンモクセイの香り 郷愁を呼ぶ季節」を参照)。それでも、マスクをしていても独特な香りは分かる。きょうは日曜日。多くの人が散歩やジョギングを楽しんでいる。「木犀の匂の中ですれ違ふ」(後藤比奈夫)という句が頭に浮かんできた。コロナ禍はどこかに行ったかのようだ。

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