小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

2054 ここが私の故郷…… 山はなくとも

    f:id:hanakokisya0701:20210916130356j:plain

 石川啄木(1886~1912)ほど、故郷を思いながら人生を送った人物は少ないのではないか。それは啄木の第一歌集『一握の砂』(いちあくのすな)を読むと、実感する。この歌集には「ふるさと」という言葉を使った歌が多いのだ。その一つに「ふるさとの山に向ひて言ふことなしふるさとの山はありがたきかな」がある。『一握の砂』第2章の「煙」の中に収められたこの歌は、啄木の故郷・岩手の名峰岩手山を指している(姫神山という説もある)といわれている。私が住む街にはこのような山はない。代わりに、人々に愛されるのが調整池とその周辺にある森だ。

 ラジオ体操仲間のNさんがこの池をテーマにした水彩画を描いた。画面の3分の2を占めるのが大雨の際に、下流に流れる水を調整するために造られた調整池と周囲の森、草原だ。その後方には、JR駅前のビル群が細密画のように描かれている。この絵からは、都市近郊の小さな自然を慈しむ気持ちが伝わる。

 冒頭に啄木の歌を取り上げたのは、Nさんの絵の下に「ふる里の池に向ひて言ふことなしふるさとの池はありがたきかな」という言葉が書き添えてあるのを見つけたからだ。私の住む街は、元々山林原野だったところを日本住宅公団(現在の都市再生機構)が1970年代後半から開発を始めた、いわゆるニュータウンである。私もNさんもこの街に30年以上住んでいるから、故郷同様の街なのだ。この街の風景を中心に水彩画を描いているNさんにとって、調整池は、啄木の歌の「山」のような存在になっているのだろう。

 深田久弥は盛岡と岩手山の関係について名著『日本百名山』(新潮文庫)の中の「13 岩手山」で「盛岡の風景は岩手山によって生きている。一つの都会に一つの山がこれほど大きく力強く迫っている例は、他にないだろう」と書いている。立山富山市あるいは高岡などその周辺の都市もそうだと私は思うのだが、それはそれとして、私たちは自然とのかかわりの中で生きていることをNさんの絵で教えられたといっていい。

 以前、68歳で起業した観光バス運行会社と並行して障害者の自立支援のNPOを運営している富山県高岡市在住の人に話を聞いたことがある。この人は会社員時代、東京支社で3年間勤務した。しかし、電車通勤をしながら「山のない東京はなじめない」と思い続け、希望して富山に戻ったという過去がある。「目の前に立山連峰がある風景こそが自分の暮らしに合っていると思ったのです」というこの人にとって、立山は生きる上での支えになっていたといえる。

 Nさんが描いた調整池の周囲には1周約900メートルの遊歩道があり、私の散歩コースになっている。四季折々に変化する自然の風景を写真に収めている。3月には桜が満開となり、そのあとは桐の花が咲く。初夏にはホタルブクロが、つい先日までは月見草が咲いていた。そして、このごろは葛の紫色の花がひっそりと藪から顔をのぞかせ、ススキの穂もだいぶ伸びてきた。時々、カメラを手にした人とすれ違う。30数年の歳月。小さな池とともに刻まれた歴史。この街を故郷とする人たちもかなり多くなったはずだ。                         

     

      f:id:hanakokisya0701:20210916130154j:plain

 

    f:id:hanakokisya0701:20210916130214j:plain