小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1987 被災地で感じる胸の痛み(再々掲)

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 東日本大震災から10年になった。政府主催の「十周年追悼式」が11日、国立劇場(東京都千代田区)で開かれた。菅内閣は「復興の総仕上げの年」と称して、追悼式を今回で打ち切る方針だという。本当に総仕上げといえるほど復興は進んでいるといえるのだろうか。史上最悪の原発事故に見舞われた福島の現状を見ていると、とてもそうは言えないはずだ。首相の式辞から「復興五輪」という言葉も消えた。なぜかは分からない。  

 ことしの追悼式で岩手、宮城、福島3県の遺族代表と被災者代表による追悼の言葉があった。4人のうち岩手県の佐藤省次さん(71)は「いろいろな思いが交錯する長いようでまた短いような複雑な思いが駆け巡る歳月だった」と、この10年について語った。私は震災直後、佐藤さんに話を聞いたことがある。805回(2011)と1860回(2020)に掲載した記事を紹介し、震災の記憶を新たにしたいと思う。(佐藤さんは、両親、おばら11人の親族を津波で失っている)    

 長い人生では様々な事象に出会い、驚くことも少なくなる。感性や感受性が次第に鈍くなるからだろうか。そうしたことを意識していた矢先の東日本大震災だった。テレビの映像や新聞、雑誌、インターネットの写真を見て震えるほどの衝撃を受けた。その衝撃度は現地に入ってさらに増した。震災から1カ月以上が過ぎ、被災地ではがれきの撤去が始まり、街の復興を目指して動き出していた。日本人に突き付けられた大災害の痛みを感じながら、岩手県の被災地を歩いた。

 高度1万メートル以上で飛ぶ飛行機の窓から三陸の町や村がかすかに見える。建物はマッチ箱のようだ。自然界で人間の営みははかなく心もとないことを実感する。その営みは自然の脅威にさらされると、もろくも壊されてしまう。悔しいのだが、その典型が今回の大震災だったと認めざるを得ない。だが、はかない存在の人間は、実はしたたかで簡単には降伏しないエネルギーを持っている。それを今回出会った一人の元公務員から教えられた。

「いまは割り切るようにしています」岩手県宮古市津波の甚大な被害から逃れることはできなかった。同市で「みやこ災害FM」というコミュニティ放送の事務局長を務める佐藤省次さん(61)は、津波で両親とおばの3人だけでなく、さらに8人の親族を失っている。両親らが津波に巻き込まれた経緯を話しながら、こうつぶやいた。  

  佐藤さんは宮古市役所を定年でやめた後、ボランティアとしてみやこコミュニティ放送研究会のメンバーとして活動をしている。奥さんと長男の3人で宮古市に住んでいるが、宮古市の隣町、下閉伊郡山田町の出身だ。生家には津波当時、両親とおばの3人がいて、津波にのまれ行方不明になった。  

 佐藤さんは宮古から山田町に駆け付け、避難所を探し回った。しかし3人の元気な姿を見つけることはできなかった。メンバーと立ち上げたコミュニティFMを災害放送にして市民の役に立ちたいと思った。だが、3人の安否が確認できないまま時間だけが過ぎていく。その衝撃で3月はなすすべもなかった。避難所を回ってもらちが明かないと思い始めた佐藤さんは4月5日、FMに出勤した。  

 ちょうど、その日のことだった。休業状態の勤務先を休んで山田通いを続けていた長男が重機を借りて実家のあった周辺を捜索すると、流された屋根の下から折り重なるようにしている佐藤さんの両親の遺体を発見したのだ。それは「精一杯生きてほしい」という両親から佐藤さんへのメッセージだったのかもしれない。  

  そんな佐藤さんにとっては、災害FM放送は市民を元気付け、さらに自身の心を震え立たせる大きな武器でもある。フリーのアナウンサーや高校生たちがボランティアとして取材・放送に協力してくれている。涙が流れるほどうれしいことだという。宮古市に行く途中、佐藤さんの生まれ故郷の山田町を通った。町の中心部はゴーストタウンだった。銀行やスーパーやコンビニや飲食店など、町の多くの機能は失っていた。だれが見ても、この町の復興の道のりは険しいと思う。  

 巨大地震、大津波に襲われた3月11日から8日前の3月3日は、1933年(昭和8)の昭和三陸地震(M8・1)から78年目だった。この日、今回大きな被害を出した宮古市釜石市大槌町では津波避難訓練が行われたという。昭和三陸地震では3064人の死者・不明者が出た。特に旧田老村(現在の宮古市の一部)では人口の42%に当たる763人が亡くなり、津波の後の村は更地同然の姿になってしまったという。それは今回目の当たりにした光景と酷似しているはずだ。  

 訓練は3市町独自に計画され、いずれもが大きな地震津波を想定して実施したという。高台まで避難する訓練をした多くの参加者の中で、何人が8日後に自分たちの運命を狂わす大災害がやってくると想像しただろうか。  

  花巻空港からレンタカーで釜石市大槌町、山田町、宮古市の順で被災地に入った。どこもこれまでの人生で初めて目にする荒涼たる光景が続いていた。釜石の商店街はほとんどの建物が津波で洗われ、商店街としての機能はなくなっていた。大槌、山田の中心部は壊滅し、宮古も甚大な被害を受けた。しかし、いずれの街でも復興のために自分たちの不幸を乗り越えて立ち上がった人たちがいる。この市や町の将来を想像する。陽光にきらめくリアス式海岸に映える安全な街にいつかは戻るだろう。それだけの潜在力が東北には備わっている。東北が大好きな私はそう、確信する。

  (2011年4月18日、 805 被災地で感じる胸の痛み それでも人間は…)  

 

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