小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1988 春を待つ思いは世界共通 浮かれることはできない日々

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 3月も中旬になった。私が住んでいる千葉市周辺ではミモザ水仙レンギョウといった黄色い花だけでなく、早咲きの八重桜(陽光桜)も咲き出した。ソメイヨシノの開花はまだだが、数日中には開花の発表があるかもしれないほど暖かな日和が続いている。だが、今もコロナ禍の渦中にある。花見に行こうと、浮かれることはできない 。「『春は黄色と共に』という言葉が浮かんだ」。ノルウェーで1年間の生活を送った作家の佐伯一麦は、春を迎えた印象を『ノルゲ』という作品の中で、このように描いている。
 
 美術大学に留学する妻とともに8月末からオスロに住み始めた佐伯は、長い冬を過ごし、春を迎える。その印象を「オスロの街の花屋には、イースターリリーや黄色のチューリップが並べられ、公園や道ばたからも水仙やクロッカスなどの芽が出始めていた。花屋以外の店にも、黄色いものたちが目に付きだした。黄色い蝋燭、黄色いテーブルクロス、黄色いナプキン、黄色に彩色された卵……。それらを目にしていると、おごそかなキリスト教の祭事というよりも春の訪れの喜びを祝い合うという雰囲気の方が勝っているように感じられた」と描き、冒頭のフレーズを続ける。
 
 北欧の冬は昼の日照時間が極端に少なく、夜が長い。陰鬱ともいわれ、精神的に追い込まれる人も少なくないという。それだけに、北欧の人々の春を待つ思いは、私たちの想像を超えたものらしい。オスロの街ではまだ雪が残っているのに、街中のカフェでは外のテラスに席が設けられ、そこで終日ビールを飲んでいる多くの人の姿が見える、とも佐伯は描写している。それは、日本では北国や日本海側の地域に住む人たちの感情に似ているのかもしれない。以前、札幌に住んだ時、雪の季節が終わり一斉に様々な花が咲く春を迎えた喜びが大きかったことを思い出した。
  
 それに比べると、北国より日照時間の多い地域に住む現在の私は、冬が去り、春がやってくることに感激は少ない。個人差があるから、みんながそうだと決めつけることはできないにしても、私はそう思うのだ。それでも桜が咲けば心が弾み、花の下を歩き、あるいは花の下で宴をしたいと思う。それは、オスロの市民がカフェのテラスでビールを飲みたいという気持ちと重なるものだ。
 
 朝の散歩で出会った知り合いが「きょうはあそこの早咲きの桜が咲いた」とか「辛夷の花が満開だね」などと、声を掛けてくる。これまでは「きょうは寒いですね。最低気温は何度ですかね」と話していたのに、会話の内容まで前向きになってきた。冬の間は少なかったラジオ体操の仲間も次第に増えつつあり「冬眠から覚めた人たちが戻ってきた」といって、人数を数える仲間もいる。「一合の酒いっぽんの山桜」(奥名春江)。だれもいない里山に行き、カップ酒を飲みながら山桜の下で物思いに浸ってみたいと夢想する。子どものころ、里山の山桜は私の友達だった。小学校に向かう私を送り、帰ってくる私を迎えてくれた……。
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