小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1860 東日本大震災から9年 被災地訪問記再掲

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 きょうで東日本大震災から9年になる。9年という歳月は日本社会に様々な変化をもたらした。大震災のあと私が初めて被災地に入ったのは岩手県だった。以下に当時、別の媒体に書いた訪問記を再掲する。(政治は民主党から自民党政権に代わり、第2次安倍政権は現在も続く長期政権になった。 

 今、日本だけでなく世界では新型コロナウイルスとの闘いに目が向けられている。そうした中で安倍政権の危うさが顕著になっている。原発事故の福島の後遺症はあまりにも大きく、浜通り地方の原状回復の見通しは立っていない)

「被災地で感じる胸の痛み それでも人間は……」  

 長い人生では様々な事象に出会い、驚くことも少なくなる。感性や感受性が次第に鈍くなるからだろうか。そうしたことを意識していた矢先の東日本大震災だった。テレビの映像や新聞、雑誌、インターネットの写真を見て震えるほどの衝撃を受けた。その衝撃度は現地に入ってさらに増した。震災から1カ月以上が過ぎ、被災地ではがれきの撤去が始まり、街の復興を目指して動き出していた。日本人に突き付けられた大災害の痛みを感じながら、岩手県の被災地を歩いた。  

 高度1万メートル以上で飛ぶ飛行機の窓から三陸の町や村がかすかに見える。建物はマッチ箱のようだ。自然界で人間の営みははかなく心もとないことを実感する。その営みは自然の脅威にさらされると、もろくも壊されてしまう。悔しいのだが、その典型が今回の大震災だったと認めざるを得ない。だが、はかない存在の人間は、実はしたたかで簡単には降伏しないエネルギーを持っている。それを今回出会った一人の元公務員から教えられた。

「いまは割り切るようにしています」。岩手県宮古市津波の甚大な被害から逃れることはできなかった。同市で「みやこ災害FM」というコミュニティ放送の事務局長を務める佐藤省次さんは、津波で両親とおばを失った経緯を話しながら、こうつぶやいた。佐藤さんは宮古市役所を定年でやめた後、ボランティアとしてみやこコミュニティ放送研究会のメンバーとして活動をしている。奥さんと長男の3人で宮古市に住んでいるが、宮古市の隣町、下閉伊郡山田町の出身だ。生家には津波当時、両親とおばの3人がいて、津波にのまれ行方不明になった。  

 佐藤さんは宮古から山田町に駆け付け、避難所を探し回った。しかし3人の元気な姿を見つけることはできなかった。メンバーと立ち上げたコミュニティFMを災害放送にして市民の役に立ちたいと思った。だが、3人の安否が確認できないまま時間だけが過ぎていく。その衝撃で3月はなすすべもなかった。避難所を回ってもらちが明かないと思い始めた佐藤さんは4月5日、FMに出勤した。  

 ちょうど、その日のことだった。休業状態の勤務先を休んで山田通いを続けていた長男が重機を借りて実家のあった周辺を捜索すると、流された屋根の下から折り重なるようにしている佐藤さんの両親の遺体を発見したのだ。それは「精一杯生きてほしい」という両親から佐藤さんへのメッセージだったのかもしれない。そんな佐藤さんにとっては、災害FM放送は市民を元気付け、さらに自身の心を震え立たせる大きな武器でもある。フリーのアナウンサーや高校生たちがボランティアとして取材・放送に協力してくれている。涙が流れるほどうれしいことだという。宮古市に行く途中、佐藤さんの生まれ故郷の山田町を通った。町の中心部はゴーストタウンだった。銀行やスーパーやコンビニや飲食店など、町の多くの機能は失っていた。だれが見ても、この町の復興の道のりは険しいと思う。  

 巨大地震、大津波に襲われた3月11日から8日前の3月3日は、1933年(昭和8)の昭和三陸地震(M8.1)から78年目だった。この日、今回大きな被害を出した宮古市釜石市大槌町では津波避難訓練が行われたという。昭和三陸地震では3064人の死者・不明者が出た。特に旧田老村(現在の宮古市の一部)では人口の42%に当たる763人が亡くなり、津波の後の村は更地同然の姿になってしまったという。それは今回目の当たりにした光景と酷似しているはずだ。訓練は3市町独自に計画され、いずれもが大きな地震津波を想定して実施したという。高台まで避難する訓練をした多くの参加者の中で、何人が8日後に自分たちの運命を狂わす大災害がやってくると想像しただろうか。  

 花巻空港で借りたレンタカーで釜石市大槌町、山田町、宮古市の順で被災地に入った。どこもこれまでの人生で初めて目にする荒涼たる光景が続いていた。釜石の商店街はほとんどの建物が津波で洗われ、商店街としての機能はなくなっていた。大槌、山田の中心部は壊滅し、宮古も甚大な被害を受けた。しかし、いずれの街でも復興のために自分たちの不幸を乗り越えて立ち上がった人たちがいた。この市や町の将来を想像する。陽光にきらめくリアス式海岸に映える安全な街にいつかは戻るだろう。それだけの潜在力が東北の人たちには備わっている。東北が大好きな私は、そう確信する。  

 写真 当時、羽田空港で見かけた東北への応援のメッセージ。現在のコロナとの闘いに置き換えることができる。