小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1939 ある詩人の晩年 省察に明け暮れた山小屋生活

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 太平洋戦争・日中戦争は全国民を巻き込み、知識人も例外ではなかった。戦後、戦争に加担したことに対し批判を受け、思い悩んだ知識人・芸術家は少なくない。作曲家の古関裕而をモデルにしたNHKの連続ドラマ『エール』で、主人公が戦後苦しむ姿はその一例を描いたものだろう。画家の藤田嗣治は日本を追われるようにフランスへと去り、一人の詩人は戦時中の行動に関して「深い省察」を余儀なくされ、岩手で山小屋生活を送った。最近、この詩人のことを書いた知人の短いエッセー『晩年・ある詩人』を読み直した。

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 《道は、自然に登りになっていた。五月にしては相当に強い風が吹き捲くっていて、棗の実ほどもある小石がころころと道を横切って飛んでいき、顔を伏せて足を踏んばって歩いていったことを覚えている。

 みるからに荒涼とした大地を吹き捲くる風の中に、開拓者の家らしい粗末な建物が点々と建っていて、その果てをぐるりと山々が取り囲んでいた。

 その台地の右手に風除けの樹が並び、山裾にへばりつくように小さな家と畑があった。

近づいてみると、家のそばに木の香も新しい小さな小屋がある。便所であった。その戸に「光」という文字が透し彫りになっていた。

 なるほど、この家の主らしいことをするものだ、と、そのとき私は、子どものいたずらを発見したような微笑ましさを感じたものだった。

 家は、三尺の戸も、窓も障子張りで、せまい土間のそばに、小さな炉が切ってあり、その人は、あぐらをかいていて、私の方へ顔をあげた。

 銀色に光る無精髭、私は瞬間、乃木希典という将軍の顔を、その人の顔にダブらせていた。懐かしさと威厳と。いま思えば、乃木将軍とは、およそ違った人生を歩み、風貌も違うのに銀色の髭だけで、二人の印象を二重映しにしたのは、いうにいえない古武士とでもいう印象を覚えたからか……

 骨太で大柄なからだを、陸軍の夏の開襟シャツで包んだその人は、啄木が歌にも詠んだ大きな節くれだった手で、身欠き鰊を焼き、一升瓶から濁酒を飯茶碗についでくれた。

 六畳ほどの家の中には、片隅に夜具が積まれ、四分板の本棚が、本の重みで中ほどがたわんでいた。その棚板に、武者小路実篤らしい絵が、画鋲で止められていた。

 ラジオがたしか二台。入口横の掘り抜き井戸の傍に、当時としてはモダンな色彩のタオル地の布巾が二、三枚。

晴耕雨読の生活のように考えている人がいてね。みんな羨ましがるが、晴耕雨読なんてもんじゃない、ここの生活は…… 畑のものは雨が降ったからって手入れを休むわけにはいかないからね。また、時々、お元気ですかとか、東京へこいとか、いいにくるものがいるけれどね。たいてい近所の温泉へ女連れできたついでだろ、きっと……」

 一日語り明かして帰りがけ、その人は畑に出て手を振ってくれた。

 南瓜が小さな花をつけたころで、その畑に立って別れを告げてくれたその姿に、私は、ふと、老人の孤独を感じたものである。

 昭和二十五年。その人の名は高村光太郎である。》

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  この文章を書いたのは、フリーの編集者だった鶴見治雄氏(2011年7月死去、86歳)である。『道程』『智恵子抄』で知られる詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956)は、戦時中に戦争に協力する詩を作ったことに対し、自省の念にかられ、終戦後の1945(昭和20)年10月、岩手県花巻郊外の稗貫郡太田村山口(現在は花巻市)に粗末な小屋を建てて移り住み、7年間独居自炊の生活を送った。編集者として光太郎と交流があった当時25歳の鶴見氏は、岩手の寒村で静かな生活を送る詩人を訪ね、後にこのような随筆(『かたりべ』より)を書いた。短い文章ながら光太郎の隠遁生活が浮かび上がり、その孤独な姿が伝わってくるのだ。(新潮社発行の日本詩人全集『高村光太郎』に、大田村に住んでいた当時の光太郎の写真が載っている。シャツの上にちゃんちゃんこ=綿入りの袖がない防寒着=を着て、帽子をかぶり、長靴を履いている。右手に杖を持っている)

  光太郎の小屋の周囲には栗の木があり、秋には毎日のように栗飯や焼き栗を食べたという。地区の子どもたちやおばさんたちも栗を拾いにきて、山奥まで入り込んだ人が熊に出会って逃げ帰ったことなどを、光太郎は『山の秋』という随筆に書いている。隠遁生活とはいえ、光太郎の好奇心と鋭い観察力は失われていなかったようだ。

 「省察」は、自分自身を省みて考えをめぐらすという意味である。だが、昨今はこの言葉も死語になってしまったようで、貪欲さと自己顕示欲にまみれた輩がやけに目立つ。光太郎の「少年に与ふ」という詩の一節(後半部分)を読み返す。

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 《えらい人や名高い人にならうとは決してするな。

 持って生まれたものを深くさぐって強く引き出す人になるんだ。

 天からうけたものを天にむくいる人になるんだ。

 それが自然と此の世の役に立つ。

 窓の前のバラの新芽を吹いてる風が、

 ほら、小父さんの言ふ通りだといってゐる。》

 

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