小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1872 にぎやかな群衆はいずこへ 志賀直哉の『流行感冒』を読む

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 私はスポーツが好きだ。見るのも私自身がやるのを含めて嫌いではない。新型コロナウイルスによる感染症がスポーツ界にも大きな影響を与えている。無観客で可能な競馬や競輪、ボートレースなどを除いて、ほとんどのスポーツは世界的に中止になる異常な状態が続いている。1年を延期した東京五輪パラリンピックも予定通り開催できるかどうか、全く予測できない。こんな時に、IOCと日本政府の間の延期に伴う経費の負担問題がニュースになった。これをめぐって、ネットでは多くの人が五輪・パラリンピックを中止すべきだと書き込んでいる。

  人は外を歩くのが好きだ。家にこもっていると、精神衛生上もよくない。だが、仕方ない。萩原朔太郎の詩「群集の中を歩く」という状況は、今の都会では許されない。三密(密閉、密集、密接)防止の戒めがあるからだ。あらためて朔太郎の詩を読む。

  私はいつも都会をもとめる

 都会のにぎやかな群集の中に居ることをもとめる

 群集はおほきな感情をもつた浪のやうなものだ

 どこへでも流れゆくひとつのさかんな意志と愛欲とのぐる

 うぷだ

(中略)

 おほきな群集の中にもまれてゆくのはどんなに楽しいことか

 みよこの群集のながれてゆくありさまを

(以下略)

  朔太郎の詩のような風景が、一刻も早く戻ることを願わざるを得ない。

  話は変わる。志賀直哉の小説「流行感冒」を読んだ。新潮文庫の『小僧の神様・城の崎にて』(新潮文庫)に収録された短編だ。スペイン風邪が世界的に猛威を振るった2018(大正7)年の私小説である。

  千葉の我孫子に住む私(志賀直哉自身がモデル)の家には妻と幼い女の子、2人の女中(お手伝いさん)がおり、当時、流行性の感冒スペイン風邪)が多くの死者を出すほど猛威を振るっていた。我孫子も例外ではない。私は子どもが感染しないよう妻と女中に注意するよう言いつける。さらに毎年家族で見に行く芝居も、大勢人が集まると感染が心配なため取りやめるほど、神経質になっている。だが、何と女中の1人がこっそりと見に行き、それが発覚すると「見に行っていない」とうそをつくのだ。

 私はこの女中に暇を出されそうとするが、妻の懇願で撤回する。その後、私と妻、子ども、もう1人の女中が次々に感冒にかかってしまう。うそをついて芝居に行った女中だけは元気で献身的に働き、私と妻に見直され、結婚も決まるというストーリーである。

  この小説は、流行性感冒を引き立て役として使い、人間関係の綾(入り組んだ筋目)をテーマにしたといっていい。ただ、志賀は長女を生後56日で亡くしており、次女が2歳であることから志賀がスペイン風邪を恐れていたことが、この作品に反映したと思われる。新型コロナウイルスに対し、私たちの警戒心には個人差がある。ウイルスは目に見えない。気が緩み、警戒心を解いてしまった結果、3月下旬の3連休に多くの人が街に繰り出し、感染が急速に拡大してしまった。志賀の恐れを、現代の私たちも教訓として受け止めたい。

  冒頭、東京五輪パラリンピックについて触れた。私も開催に賛成できない。国、東京都、組織委の支出・同予定額は3兆円を超える。さらに延期に伴う追加費用数千億円が間違いなく発生する。IOCのホームページは安倍首相が追加費用の負担を了承したと出ていたが、現在は削除されている。とはいえ、もし東京五輪が開催可能になったら、確実に追加費用の負担問題が浮上する。そうした巨額の資金は新型コロナウイルス対策に充てるべきだという声がある。その通りだと思う。東京五輪が来年夏の開催が可能になるほど、新型コロナウイルス感染症が今後劇的に収束に向かうのか。それはだれも予測がつかない。