小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1871 順境と逆境と 緊急事態宣言の中で

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 逆境の反対語は順境である。前者は「思うようにならず苦労の多い境遇」(広辞苑)、後者は「万事が都合よく運んでいる境遇。恵まれた幸せな境遇」(同)という意味だ。ベーコンの『随想集(5)』(岩波文庫)には「順境の特性は節制であり、逆境のそれは堅忍である」とある。新型コロナウイルスの世界的感染拡大という事態に見舞われた現代は、人類にとって逆境であり、まさに耐えしのぶ時なのだと思う。  

 緊急事態宣言の対象地域が全国に拡大した。雨の土曜日、私の家の前の遊歩道に人影はほとんどない。仕事以外の人たちの多くが家にこもっているのだろう。コロナ感染が拡大する以前、幅広い活動をしていた知人たちも外出を避けているようだ。映画のDVDを数本借り、その原作を読み返しているという知人、文庫本をまとめて購入し「籠城に備えた」という知人、カメラで撮影した風景写真を取り出し、俳句をつくっている知人もいる。  

 私と言えば、散歩のほかは読書に多くの時間を費やしている。最近読んだのは大木毅『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』(岩波新書)、飯嶋和一『神無き月十番目の夜』(小学館文庫)で、今は星野博美『コンニャク屋漂流記』(文春文庫)を手に取っている。大木の本は第二次大戦のヒトラー・ドイツとスターリンソ連との戦争を多角的に描いたもので、その悲惨な実態に衝撃を受ける。第二次大戦といえば日本軍部による展望なき戦いに目が奪われるがちだが、同じ地球上でおびただしい血が流れる絶滅戦争が繰り広げられていたことを思い知らされた。この作品は2020年の新書大賞(中央公論社主催)に選ばれた。  

 飯嶋の小説は、常陸国小生瀬村(現在の茨城県大子町小生瀬)で慶長年間に起きた水戸藩による一村皆殺し事件(生瀬一揆)がモデルになっている。徳川家康の天下統一によって、それまで伊達政宗の南下を抑える役割を果たし年貢や自治権で優遇されていた小生瀬月居地区でも、あらためて検地が実施される。藩による過酷な支配への移行を感じさせる中で、農民たちの抵抗が始まる。大子町のHPには偽役人と本物の役人による年貢の二重取立が事件の発端という、この事件の伝承が載っている。飯嶋の作品はフィクションであり、伝承とは異なる部分が少なくないが、逆境の中で人はどう生きるのか、という今日的難題について考えさせられた。  

 生き方の原点を考えるという意味で、孔子と門人たちの言行録『論語』(加地伸行全訳注・講談社学術文庫)を時々手に取る。その中に為政者の心構えに関する問答がある。その一つ、「顔淵第12の7」は現代訳(要約)すると、以下のような内容だ。 「子貢が為政者の心構えを聞くと、先生は『民の生活の安定、十分な軍備、そして政権への信頼だ』と語った。『このうちどうしても捨てなければならないとしたなら、どれか』と聞くと、『軍備だ』と答えた。さらに『では残った2つうちどうしても捨てなければならない時はどうか』と質問すると『生活だ。[もちろん食がなければ死ぬ。しかし]古来、人間はいつか必ず死ぬ。[けれども]もし為政者への信頼がなければ、国家も人も立ち行かない』と先生は述べられた」  

 政治家は信頼が第一の要件であることを論語は示している。新型コロナウイルスをめぐって、政治の責任が重いことをいやというほど感じているのは私だけではないだろう。内外ともに為政者の信頼度、力量が鮮明になりつつある。残念なことだが、コロナとの闘いの中で米中による覇権争いも顕著になり、言動が危うい為政者も目に付く。私たちは、ひたすら耐えることしかできないのだろうか。  

写真 例年よりかなり早く開花したオオデマリ  

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