小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1964 1年前の不安が現実に 文明人と野蛮人の勇気の違い

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 新型コロナウイルス感染症の発生地といわれる中国武漢市が封鎖になったのは、2020年1月23日だった。あれから間もなく1年になる。私がこのブログで新型コロナのことを初めて書いたのも、この日だった。当時のブログを読み返すと、「新型コロナウイルスが人類共通の闘いに発展することがないことを願うばかりだ」と書いている。この不安が現実のものになってしまった。そして日本は第3波に襲われ、首都圏1都3県に2度目の緊急事態宣言が出された。

 「病気を怖れないで、伝染の危険を冒すなどと云うことは、それは野蛮人の勇気だよ。病気を怖れて伝染の危険を絶対に避けると云う方が、文明人の勇気だよ。誰も、もうマスクを掛けて居ないときに、マスクを掛けて居るのは変なものだよ。それは臆病でなくして、文明人の勇気だと思うよ」

  これは、作家で文藝春秋の創設者、菊池寛(1888~1948)の『マスク』(文春文庫)という短編に出てくる一節だ。この短編は、かつて猛威を振るったスペイン風邪(流行したのは1918年~3年間。世界の罹患者は推定で5億人、死者 は4000万人~1億人。日本の死者は40万人前後と推定されている)当時のマスク着用をテーマにしている。菊池自身と思われる主人公は「見かけは太っていて、他人から頑健と思われながら、実は内臓が人並み以下に脆弱」で、医者からは流行性感冒スペイン風邪)にかかったら危険だと警告され、都会で感冒が収まりつつあってもマスクを掛け続ける。そして、上述のように、友人に弁解するのだ。

 「マスク着用は文明人の勇気」とは、なかなか鋭い指摘だ。日本ではマスクは冬だけでなく、花粉の季節でも珍しくない。新型コロナによってマスク姿は日常化した。電車内では誰もがマスクをし、座っている人のほとんどがスマホの画面を覗いている、というのが現代の光景だ。

  欧米ではマスク文化がなかったが、今度ばかりはマスク着用が普通になった。マスクを着けない一部の人(例えばトランプ米大統領やボルソナーロ・ブラジル大統領ら)の行動は、菊池から見たら、伝染の危険を冒す「野蛮人の勇気」といっていいようだ。

  「毎日の新聞に出る死亡者数の増減に依って、自分は一喜一憂した。日毎に増して行って、3337人まで行くと、それを最高記録として、僅かばかりではあったが、段々減少し始めたときには、自分はホッとした。が、自重した。2月一杯は殆ど、外出しなかった。友人はもとより、妻までが、自分の臆病を笑った。自分も少し神経衰弱の恐怖症に罹っていると思ったが、感冒に対する自分の恐怖は、何(ど)うにもまぎらすことの出来ない実感だった」

 『マスク』には以上のような記述もある。昨年のコロナ感染症の拡大以降、同じような思いで毎日を送っている人は少なくないのではないか。私は昨年の同じブログで「WHO(世界保健機関)を中心に世界各国が情報を共有すべきだと痛感する。しかし、そのWHOの活動が心もとないと思うのは、杞憂だろうか」とも書いた。1年を経ずして事態は憂慮すべき状況になった。

  WHOのテドロス事務局長が中国寄りの姿勢を続け、結果的にパンデミック認定が遅れ、この感染症の世界的大流行を招いてしまった。しかも中国は、今年になっても新型コロナウイルスの起源解明に向けたWHOの国際調査団の入国を認めず、調査は暗唱に乗り上げた形になっている。

  今回の新型コロナウイルスに対する日本政府の対応については「後手、後手だ」という批判が少なくない。しかも不幸なことに、流行の中心になっている東京都と政府の関係がぎくしゃくし、一体となった感染拡大防止の姿勢が見られない。経済とコロナ対策を両立させようという政策は、感染拡大によって「二兎を追う者は一兎をも得ず」になりかねない状況を作り出している。

  そんな中で、首都圏に7日夕発令された2回目の緊急事態宣言。酒類を提供する飲食店などの閉店時間を午後8時に短縮するという時短要請や、午後8時以降の不要不急の外出自粛要請など限定的な対応だが、感染拡大に歯止めが掛かるかどうか。今はブレーキが掛かることを願うばかりだ。

 

 写真 紅梅が咲き始めた遊歩道

 
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