小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1790 マロニエ広場にて 一枚の絵にゴッホを想う

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 近所にマロニエセイヨウトチノキ)に囲まれた広場がある。その数は約30本。広場の中心には円型の花壇があり、毎朝花壇を囲むように多くの人が集まってラジオ体操をやっている。私もその1人である。既にマロニエの花は終わり、緑の葉が私たちを包み込んでいるように見える。体操仲間の1人がこの風景を絵に描いた。色とりどりの花が咲く花壇の後ろに4本のマロニエが立っている。私は絵を見せてもらいながら、ゴッホマロニエの花を描いたことを思い出した。  

 ゴッホは、「花咲く……」という題の絵を何枚か残している。「花咲くアーモンドの枝」「花咲く梨の木」「花咲く桃の木」「花咲くアンズの木々」「花咲く薔薇の茂み」そして「花咲くマロニエの枝」だ。マロニエの絵は、ゴッホが亡くなったフランス・パリ近郊の村、オーヴェル=シュル=オワーズで過ごした最晩年に描いたものだ。ほんのりと赤みを帯びた白い花と緑の葉、背景にゴッホの特徴であるうねりながら渦巻くような(のたうつような筆遣いと表現する研究者もいる)真っ青な空が描かれている。  

 アルルでゴーギャンとの共同生活が破綻し精神を病んだゴッホは、転地したサン=レミでも耳切り事件を起こす。この後さらに転地療養のため友人の紹介でサン=レミからオーヴェル=シュル=オワーズに移った。1890年5月17日のことである。マロニエの花が真っ盛りのころだ。「オーヴェルは美しい。とりわけ美しいのは、近頃次第に少なくなって来ている古い草屋根が沢山あることだ」と、弟のテオ宛の手紙でこの村の美しさを書いたゴッホ。散歩の途中、マロニエの花を見つけ、それを手折って食堂3階の下宿に持ち帰ってあの絵を描いたのだろうか。  

 ゴッホはこの2カ月後の7月27日、自分の胸をピストルで撃って重体となる。自殺を図ったとの見方が有力で、29日未明にテオに看取られ息を引き取る。37年の不遇で不幸な生涯だった。(テオも数カ月後に精神錯乱に陥り、ゴッホの後を追うように1891年1月25日に病没する)作家の原田マハゴッホの生涯を描いた『たゆたえども沈まず』(幻冬舎)という作品の終わり近くで、ゴッホの葬列について書いている。その書き出しの描写が印象的だ。

《抜けるような青空が、村落の上に広がっていた。力強い太陽が燦々と輝き、石畳の上に濃い緑陰を作っている。マロニエの枝葉を揺らして風が通り過ぎていく》  

 マロニエは、青い空の下で見るのが一番似合う。体操広場のマロニエも、どんよりと曇った日や雨の日はうら寂しいが、好天で青空が見える日にはその姿に勢いがあって、私も元気になるような気がする。以前、この広場には円い噴水があった。いつしか噴水として使われなくなったため地域の人たちの手で花壇に変貌、いまでは通りがかりの人たちが季節の花々を楽しみ、ラジオに合わせて体を動かす元気な人たちの憩いの場所になっている。

 見せてもらった絵には「春のマロニエ公園」という素敵な名前がついていた。四季折々に変化するマロニエは私たちにこんなふうに、何かを語りかけている気がする。「私たちが悲しみ、もう生きるのに耐えられないとき、一本の木は私たちにこう言うかもしれない。『落ち着きなさい!落ち着きなさい!私を見てごらん!』(ヘルマン・ヘッセ「木」より)。  

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 写真 1、体操仲間の絵 2、マロニエ広場 3、ゴッホの「花咲くマロニエの枝」(画集より)  

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