小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1759 桜の季節そこまで 四季の美しさ見つめて

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 シンガポールから東京にやってきた19歳の留学生が「初めて四季の美しさに目覚めた」ということを書いた新聞の投書を読んだ。「日本は四季がはっきりしていて、自然が美しい」といわれる。しかし、そうした環境に身を置くと、ついそれが普通と思ってしまいがちだ。この留学生のような瑞々しい感覚を取り戻す機会が間もなくやってくる。桜の季節である。  

 投書によると、この留学生は東京に住んで人生初の秋の季節を体験したのだそうだ。シンガポールは赤道直下で365日が真夏なのである。イチョウ並木のある街では木々が風に吹かれる音を聞き、落ち葉が道路を黄色く染めているのを見て「こんな絶景が日常にあるなんて」と感動し、道路の真ん中に立ち止まってしまったという。投書の後段がいい。「いつも前向きで一生懸命な日本の方々に少し立ち止まって自然のプロセスを味わってほしい」「効率性のためゆとりを犠牲にしている方が多いと思う。仕事や勉強に追われるあなた、たまには周りの景色を鑑賞してみませんか?」

 私たちの日常に、この留学生が見たような風景は珍しくない。だが、がむしゃらに先を急ぐあまりにそれを見過ごしてしまい、無感動の日々を送ってしまうのだ。気象庁の発表によると、ことしの桜の開花は例年より早くなる予想で、無感動な人でもつい立ち止まって花を見上げてしまう日が近づいている。初めての桜をこの留学生も楽しみにしているに違いない。桜は昔からその美しさとともに無常観も漂っているとされていて、さまざまな和歌にも謳われている。西行の「願はくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ」はあまりにも有名だ。この歌の通り、桜の季節に死んだ西行は風流人としての生涯を貫いたのだといえる。  

 与謝蕪村は「桜より桃にしたしき小家(こいへ)かな」という句を残した。大岡信はこの句について「庶民的な小さな家に住んでいる人々にとっては桜よりも桃の方がもっと親しい感じがあって、それを外側から観賞すると、こういう句になる、と言っていい。ただし、その蕪村にしても、元来は桜のほうが桃よりは上位にあるという一種の前提をバックに、こういう句を作っている」(『瑞穂の国歌』新潮文庫)と、解説しているが、私は小さな庭しかない家に住んでいるから、蕪村の句を額面通りに受け止める。春浅い頃に咲くピンクの桃の花の方が、絢爛な桜よりも好きだという人もいるかもしれない。  

 2月から梅が咲き始め、桃の花も満開だ。この後、モクレン、コブシ、海棠が咲き、真打ともいえる桜(沖縄の寒緋桜は1月から開花)が日本列島を北上する。留学生が提案するように、この春は周りの景色を楽しむことにしたいと思う。  

桜に関するこれまでのブログ  

1104 ふと見るいのちのさびしさ 福島の滝桜と花見山公園に行く  

1222 さまざまの事おもひ出す桜かな 東京を歩いて  

1350 「散った桜散る桜散らぬ桜哉」 上野公園を歩く  

1425 山桜に寄せて 詩「さざめきの後で」  

619 ことしの春は 花戦争の季節に思う