小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1243 ひっそりと咲く夏アザミ 春から秋までの路傍の花

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 散歩コースの調整池の周囲にアザミの花が咲いている。アザミは漢字で「薊」と書く。俳句の季語は春である。立夏はとうに過ぎているが、キク科の植物であるあざみは種類が多く、春から秋にかけて花が咲き続けるという。このうち夏に咲くアザミ を「夏薊」といい夏の季語になっている。

 雑草に混じって咲く紫の花は可憐である。きょうの朝も夏薊の花を見て足を止め、「あざみの歌」もあったはずだ、どんな歌だったかなとメロディを考えた。 新興俳句運動の指導者といわれた山口誓子「双眼鏡遠き薊の花賜る(たばる)」という句をつくっている。「遠いところにあるあざみの花だが、双眼鏡を使ってすぐそこで咲いているように見させてもらった」という意味だろうか。これは春の句だという。

 こんな句もある。「夏あざみ音たててくる阿蘇の雨」(中島稾火)は、「冒頭から夏」を使っていて梅雨の季節にうたった句だろうか。阿蘇に咲く夏あざみの姿はどんなだろう。

「日本のうた300、やすらぎの世界」(講談社+α文庫)に「あざみの歌」の詩が載っているのを見つけた。この歌を作詞した横井弘は、昭和期の作詞者で多くの名曲を残している。詞は3番まであるが、特に3番がいい。

 いとしき花よ 汝(な)はあざみ こころの花よ 汝はあざみ さだめの径(みち)は涯(は)てなくも 香れよせめて わが胸に

 野草はおしなべてひっそりと咲いている。アザミも例外ではない。そんなイメージがこの詞からは伝わってくる。

「夏が過ぎ風あざみ…」井上陽水の「少年時代」という歌の冒頭に「風あざみ」という言葉が出てくる。これは秋を感じさせる架空の花だと、作詞した井上自身がテレビの番組で語っているのを聞いたことがある。

 夏が終わり、風に揺れるアザミを連想させる味のある言葉である。 文芸評論家・杉本秀太郎の「花ごよみ」(講談社学術文庫)によると、「山野を歩いていて、ばったりと、思いがけず出会ってうれしい花は、秋ならば吾亦紅、春ならば薊」だという。

 私は夏でもうれしい花だと思う。 正岡子規「世をいとふ心薊を愛すかな」とい句を残した。病気と闘い続けた子規らしい句だ。

歌の風景 少年時代の風あざみ