小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1754 若者の未来奪った五輪の重圧 円谷幸吉の自死から51年

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 東京五輪のマラソンで銅メダルを獲得した円谷幸吉が自殺をしたのは1968(昭和43)年1月9日のことである。27年の短い生涯だった。あれから51年の歳月が流れている。円谷の自殺に関しては当時から、次のメキシコ五輪で金メダルをという重圧を受ける中での腰の故障による不調、指導を受けていた自衛隊体育学校のコーチの左遷、結婚の破談が重なったことが要因との見方が強い。これを世に広めたのはベストセラー『深夜特急』の作者、沢木耕太郎のノンフィクション作品だった。最近、沢木の作品の内容に疑問を呈する小説を読み、後世まで批判に耐える作品を書くのは容易でないことを思い知らされた。  

 増山実著『空の走者たち』(ハルキ文庫、以下『走者』と表記)である。円谷が時空を超えて現れ、しかも実在の人物も重要場面で登場するフィクションだが、円谷の悲劇を描いた沢木のノンフィクション作品『敗れざる者たち』(文春文庫)の中の「長距離ランナーの遺書」(以下『遺書』と表記)についてもかなりの頁を割いている。それは批判といえる指摘が多かった。

 沢木は『遺書』の終わりの方でこんなふうに書いている。「円谷は最後まで『規矩の人』だった。円谷の生涯の美しさは、『規矩』に従うことの美しさであり、その無惨さも同様の無惨さである」。辞書には「規矩の規はコンパス、矩は物差しのこと。規準とするもの。手本。規則」(広辞苑)とあるから、円谷は生真面目な人だったと沢木は考えたのだろう。そして、この見方を基本に、沢木は円谷の「自主性のなさ」「融通の利かなさ」「暗さ」を強調するエピソードを列挙していく(『走者』より)のだ。  

 以下、2つの作品の対立点(要約)を記す。  

 1、円谷の出身地、福島県須賀川市について 『遺書』ただ美しい牡丹園があることで近隣の町村にいくらか知られている以外は、誇るものとてない東北のあたりまえの町である。 『走者』取材で実際に足を運べば、この須賀川という町が「東北のあたりまえの町」でないことはすぐに判るはずだ。

 筆者(沢木のこと)は、おそらく、ごくあたりまえの町に生まれた、東北の農村のある種の典型といった人物像を作りたかった、そのために意図的に眼をそむけている。気になるのは「誇るものとてない」という書き方だ。「見るものとてない」ならまだわかる。それは、外から来ている見る側の感性の問題だからだ。しかし、誇るものとてないは、そこに生きている側の物言いだ。須賀川の人たちは自分の町に強い誇りを持っている。誇るものがないのが、東北のあたりまえの町というレトリックにもひっかかるものがあった。自分なら、こうは書かない。  

 2、遺書に血が付着? 『遺書』円谷の遺書が2通あり、便せん2枚に及ぶ両親あての遺書の1枚には濃く血が浸み込んでいた。 『走者』便箋の浸みは血ではなく長兄が遺書を見て流した涙をぬぐった跡だった(円谷の兄の1人、4男の喜久造さんの証言)。  

 3、後ろを振り返らず 『遺書』東京五輪で円谷は、国立競技場にアベベに次いで2位で入りながらイギリスのヒートリーに抜かれ銅メダルになった。父親の子供のころからの厳しい教えを守り、後ろを振り返らなかったことが抜かれた背景にあった。 『走者』国立競技場に入った円谷は、既に力を使い果たしていて、後ろを振り返る余裕はなかった。幸吉以外でもあの状況では振り返れなかった(喜久造さん)。    

 4、写真 『遺書』ニュージーランド遠征の際、撮影した選手とコーチらの集合写真について。(全員が)くつろいでいるのだが、円谷ひとりシャツを着て両手をピンとし、背筋を伸ばしているのだ。その生真面目な様子が、彼の影を妙に薄くしている。 『走者』記念館(現在は円谷幸吉メモリアルホール)にあった幸吉の素顔の写真の数々を筆者(沢木のこと)は1枚も見なかったのだろうか。どの集合写真でも、幸吉は誰よりも無邪気な笑顔を見せていた。生真面目な写真を見つけるほうがむずかしいのではないかと思えるほどだ。  

 5、その他(『走者』より。『遺書』にはなし。①日本陸連が有力選手に対して実施したアンケートで、競技会の運営にあたる大会役員を「せかされることが多く、余りにも枠にはまり過ぎている傾向あり」と批判するなど、円谷は率直に自身の意見を述べている。②円谷とレース中盤から終盤まで長い間一緒に走ったハンガリーのシュトー・ヨーゼフについてもかなりの頁を割いている。シュトーは、ハンガリーで著者の増山に取材を受けたことをきっかけに、2014年10月、半世紀ぶりに来日、円谷の故郷、須賀川市を訪問した。  

 このように、増山は小説の中で「型にはまった円谷像」を打ち消す材料を数多く提供し、『遺書』について「『笑顔』の幸吉が、このルポからは抹殺されている。人は、書きたい物語を書きたいように書く。それが良いか悪いかを断じる資格は今の田嶋(主要登場人物の1人で通信社記者)にはない。田嶋にできること。それは、結局ごくありきたりのことでしかなかった。足を運んで、直接話を聞くことだった」と指摘している。増山は円谷の自殺についてのかつての名ランナー村社講平の新聞へのコメント(円谷君が自分の後継者を輩出させえなかった悩みが今回の自殺につながることはわかる)を手掛かりに、小説の形をとって仮説を進めていく。

「遺書」は1972年4月号の雑誌「展望」に発表された。このあと同年出版の『敗れざる者たち』(全6作)に収録された。当時、沢木は売り出し中のルポライターで、持ち前の取材力と筆力で完成度の高い作品にした。この作品の影響力は大きく、多くの読者に円谷像が浸透した。だが、批判は避けられなかった。円谷の自殺から半世紀以上が過ぎ、円谷は伝説のランナーといえる存在になっている。オリンピックは1人の若者の未来を奪った魔物のように思えてならない。  

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